黒船見学は庶民の娯楽だった!?幕末の「黒船来航」にまつわるさまざまな俗説と勘違い (2/5ページ)
外国船が沿岸にやってくる風景は、当時の庶民にって日常的なものだったのです。
密貿易までやっていた沿岸の漁村や農村の人々は、こうした外国船の出没に慣れていました。
では諸藩はどう対応していたかというと、沿岸の漁村・農村に異国船の来航を報告させたり、対応を指示したりしていました。
中には、出合交易と称して、沖合で外国船と密貿易をしていた人々もいたのです。
1825年の外国船打払令が出る前は、外国船に燃料と食料、水を与えて長崎へ誘導する柔軟な対応が一般的でした。
打払令後もその状況は大きくは変わりませんでした。反対に、薪水給与令によって外国船への補給が制度化されたからです。
こうした中で諸藩も外国船対応マニュアルを作っており、村役人や名主を通じて庶民に共有していたのです。誰もが外国人と接触する「心構え」を持っていました。
混乱から娯楽化へ例えば房総半島の人々は、ペリー来航前から蝦夷地警備に動員されていました。
江戸湾の警備では「お手伝い」として農民や漁民が参加し、武士だけでなく庶民が海防を支えていたといいます。
林子平の『海国兵談』や工藤平助の『赤蝦夷風説考』といった外国情報書も庶民の間で広く読まれており、危機意識も共有されていました。