個人の権利は後回し…明治の象徴「四民平等」実際は平等ではなく身分制度の再編に過ぎなかった (3/5ページ)
この再編と同時に、明治政府は戸籍制度の整備を進めました。
1871年に戸籍法がつくられ、翌年に壬申戸籍がまとめられます。
江戸時代にも宗門人別改帳が存在していましたが、これは寺が人々を管理する仕組みだったため、近代国家の人口把握には向いていませんでした。
壬申戸籍はその代わりとなる制度で、皇族・華族・士族・卒族・平民の人口が初めて明確に記録されます。
ちなみに日本史関係の文章で新平民という言葉を目にすることもありますが、壬申戸籍にはこの言葉の記載はなく、後に生まれた俗称であることが研究で確かめられています。
平等よりも国家建設壬申戸籍の数字を見ると、皇族は3人、華族は2821人、士族は154万8568人、卒族は3万3881人、平民は3110万6614人でした。
これを見ると平民が圧倒的多数であり、国家がどの層を基準に制度を作ろうとしていたかが読み取れます。
教科書では、しばしば「四民平等」が同じ権利と義務を持つ国民をつくるための改革と説明されます。
しかし、実際には徴兵令・地租改・学制など、国家が必要とする制度を実行するための準備として身分を整理した側面が強いものです。
つまり、国家が統治しやすいように身分をまとめたのであって、近代的な平等の理念が先にあったわけではありません。
明治政府の関心は国家建設にあり、個人の権利は後回しでした。