昭和の幕開けを揺るがしたマスコミの大誤報「光文事件」――昭和改元で起きた“世紀の誤報”の真相 (2/4ページ)
大正天皇の病状は厳しく管理され、宮内省と新聞社の間では情報をめぐる攻防が続いていました。
宮内省は「発表は葉山と東京で同時に行う」と新聞社に通告し、情報の流出を極端に警戒していました。記者が裏取りをする余地はほとんどなく、それは裏を返せば、わずかな情報の断片が“決定情報”として扱われる危険な状況だったのです。
「昭和」に決まっていたさらに、光文という案が根も葉もない完全なデマだったわけではなかったのも微妙なところです。
公的記録『昭和大礼記録』によると、内閣案の五つの候補の中に「光文」が含まれていたことが確認できます。
つまり、光文は確かに候補の一つではあったのです。
しかし、元号案の作成を主導したのは宮内省であり、宮内省がまとめた第1案から第3案までのどこにも「光文」は登場しません。
一方で「昭和」はすべての案に含まれており、最初から最有力候補だったことがわかります。
この事実を裏付けるのが、枢密院議長・倉富勇三郎の日記です。
1926年12月8日、倉富は宮内大臣・一木喜徳郎と会談し、一木から「最終候補は昭和・元化・同和である」と伝えられています。