『豊臣兄弟!』名誉か捏造か…桶狭間の一番手柄・簗田政綱、伝説と史実の狭間で消えた最期 (2/4ページ)

Japaaan

信長が奇襲を決行しようとした際、周囲の家臣は反対しましたが、政綱はこの作戦に賛同。さらに、自ら兵を率いて義元のいる本陣の裏手へ移動したとされています。

戦いの最中には信長を励ましつつ、義元を討ち取るべきだと進言しています。また、自身も織田軍の先陣に加わり、奮戦しました。桶狭間の戦いでのこうした活躍により、沓掛城を与えられました

※織田軍の奇襲についての考察

【豊臣兄弟!】で近々描かれる「桶狭間の戦い」少数の織田軍が奇襲で勝利…がほぼ創作といえる理由

このような政綱の活躍や「一番手柄」とする評価は、創作である可能性が高いと考えられています。

その根拠となるのが、江戸時代の医師・小瀬甫庵(おぜ-ほあん)が記した『甫庵信長記(ほあんしんちょうき)』です。

創られた政綱の活躍

『甫庵信長記』は『信長公記』をもとに作成されたものですが、甫庵自身が意図的に創作を加えていることが知られており、信ぴょう性は低いです。それでもこの説が広まった背景には、信長が情報の重要性を理解していた革新的な武将であることを示すため、このエピソードが後世に定着した可能性が考えられます。

※『信長公記』の著者・太田牛一については、以下の記事で紹介しています。

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