身ぐるみ剥がされ奴隷に…戦国時代、秀吉の北条征伐の果てに悲劇的な末路を辿った「大福御前」の生涯 (2/6ページ)
ただしその場合、西福御前(西に住んでいたお福?)と同じ名前になってしまいそうですが、果たしてどうだったのでしょうか。
藤田家は武蔵国天神山城(埼玉県長瀞町)を治める土豪でしたが、天文15年(1546年)の河越夜戦で北条氏康に敗れ、やがて降伏します。
氏康はまだ幼い四男の乙千代丸(後の北条氏邦)を大福御前と結婚させ、婿養子としました。
藤田の家督を譲らされた康邦は、嫡男の弥八郎(後の用土重連)を連れて用土城(埼玉県寄居町)へ移って用土氏と称し、失意の中で天文24年(1555年)に世を去ります。
大福御前は夫の氏邦と二人で天神山城に取り残され、相次いで世を去った両親の訃報に心を痛めたことでしょう。後に兄弟の重連も毒殺され、一人きりになってしまいました。
大福御前の子供たち
とは言え氏邦との夫婦仲は決して悪くなかったようで、二人の間には三人の子供が生まれています。
しかし長男の北条東国丸(とうごくまる)は天正11年(1583年)に早逝し、次男の北条亀丸(かめまる)は病弱で家督を継げなかったので、藤田家の菩提寺である正龍寺(埼玉県寄居町)で出家。鉄柱と号しました。
天正15年(1587年)に生まれた三男の北条光福丸(こうふくまる)に望みが託されたほか、生母不詳の北条庄三郎(しょうざぶろう)が生まれています。
……ということですが、大福御前は光福丸を生んだ時点で47歳。当時の感覚では相当な老齢でした。そこで近年の研究では、天文22年(1553年)生まれとする説もあるようです。