身ぐるみ剥がされ奴隷に…戦国時代、秀吉の北条征伐の果てに悲劇的な末路を辿った「大福御前」の生涯 (3/6ページ)

Japaaan

ちなみに東国丸が亡くなると、氏邦は長兄・北条氏政の次男である北条直定(なおさだ)を養子にとり、苗字を藤田から北条に戻しました。

鎌倉時代からの名族であった藤田の家名を、ただ一人で守り続ける大福御前の不安な胸中は、察するに余りあります。

北条征伐で氏邦と離別

決戦に臨む氏邦と大福御前(イメージ)

やがて鉢形城(埼玉県寄居町)へ移り住んだ氏邦と大福御前。しかし天正18年(1590年)、鉢形城も豊臣秀吉による北条征伐の標的とされました。

鉢形城は前田利家・上杉景勝・真田昌幸・浅野長政・本多忠勝・島田利正・鳥居元忠ら35,000の軍勢に包囲されてしまいます。

対して鉢形城に立て籠もる軍勢はおよそ3,000。十倍以上の戦力差を前にしながら、それでも一ヶ月にわたり徹底抗戦し、坂東武者の意地を見せました。

「最早これまで。女子供は早く落ちよ」

開城を決断した氏邦は大福御前らを脱出させ、自らは降伏・出家しています。この時に次男の鉄柱が修行していた正龍寺の住職・天叟(てんそう)は前田利家と旧知であったため、氏邦の助命嘆願に奔走したそうです。

そして主君の北条氏直(長兄・氏政嫡男)と共に高野山へ入り、後に能登国七尾(石川県七尾市)で前田家の庇護下におかれました。

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