実在した豊臣秀吉のミイラ――出土するもたちまち崩壊…神になろうとした天下人の痛ましい末路 (2/5ページ)
そして建造中の社殿は秀吉を祀るためのものだと説明され、神号は「新八幡」であると豊臣家は既成事実化を図りました。
しかし朝廷はこれを拒絶します。理由の一つは、神祇官の頂点に立つ吉田兼見が反対したためで、八幡は仏教色が強いので神号としてふさわしくないとしたのです。
代わりに提示されたのが豊国大明神という神号でした。日本の古称・豊葦原中津国に由来する格の高い名でした。
秀吉の死後、ご存じの通り豊臣家と徳川家の対立は激化し、二度の大坂の陣を経て豊臣家は滅亡します。
徳川家康は豊国大明神の神号を廃止し、豊国社の建物も破却しようとしました。
しかし秀吉の未亡人・高台院が「壊すのではなく、荒れるままにしてほしい」と願い出たため、建物は放置されます。
やがて秀吉の遺体を納めた甕を埋めた墳墓も、徳川家を憚って馬塚と呼ばれるようになり、豊国社は荒れるに任せて放置されます。十七世紀後半には廃屋と化していました。
そこは天下人の墓所とは思えない荒れ果てた状態で、まさに盛者必衰を象徴する場所となっていたといいます。
状況が変わったのは明治維新後でした。
慶応四年、明治天皇の大坂行幸をきっかけに豊国大明神の神号が復活し、明治十三年には京都に豊国神社が再興されたのです。