『豊臣兄弟!』男の一生を貫いた武将・前野長康の「辞世の句」秀吉に媚びず自害を選んだ覚悟の結末 (4/7ページ)
蔚山籠城図屏風(福岡市博物館所蔵)(Wikipedia)
長康は、決して策を弄して主君を操る人物ではなかった。あくまで与えられた役目を果たし、戦場に立ち続けた実務家である。
だからこそ、秀吉が変質していく過程においても、表立って反旗を翻すことはなかったのだろう。だがそれは、盲目的な追従とは異なる。出世欲に溺れず、権力に取り入ることもなく、ただ武士としての筋を守ったのである。
文禄の役から帰陣後、長康は老齢を理由に隠居を願い出る。しかし秀吉はこれを許さず、自ら関白職を譲った甥の豊臣秀次の後見人および宿老を務めることを命じた。
そして文禄4年、「豊臣秀次事件の嵐」が吹き荒れる。秀次が高野山で自害すると、その粛清の波は長康にもおよび、嫡子・景定が処断の対象となって自害した。
理由は、長康がことさらに秀次をかばったという嫌疑であった。
長康は秀次の宿老である。だがそれ以上に、秀吉の股肱の臣であった。この嫌疑は、理不尽極まりないものといわざるをえないであろう。