幕末の寺に残る「16歳の数学少女」 ――史料でたどる、江戸時代に消えた“和算少女”たちの痕跡 (3/4ページ)
少女たちは日常の中で、実務のための数学に触れていたと考えられます。
一方で、和算家として名を残すためには、塾の運営や書物の出版、算額の奉納など、公の場で実績を示す必要がありました。出版や保存、記録の主体は多くの場合、男性や家の当主に偏っており、女性や子どもは「学んではいても、名前が表に出にくい構造」に置かれていました。
「消えた」のではなく「残らなかった」名前和算史において、女性数学者として広く知られる名はごく限られています。しかし、それは女性が存在しなかったことを意味しません。
明星輪寺の算額には、河合澤女や奥田津女といった少女・女性の名が刻まれています。『算法少女』には、平章子という少女の名が撰者・編者として明記されています。
少女の名が数学と並んで刻まれている。少女の名義で数学書が出ている。これらは確認できる事実です。
しかし、彼女たちがどのような家庭に生まれ、どの程度まで数学を学び、その後どのような人生を送ったのかをたどる記録は、ほとんど残されていません。
歴史は、残された史料の積み重ねから組み立てられます。出版や奉納、保存の仕組みに乗らなかったもの、あるいは乗っても後世まで残らなかったものは、「なかったこと」として扱われやすい。
その意味で、「数学を学んだ少女たちが消えた」のではなく、「彼女たちの姿を記す記録が十分に残らなかった」と考える方が、史実に即しています。
史料の隙間から見える「数学少女」たち明星輪寺の算額と『算法少女』は、時代も性格も異なる史料ですが、一つの共通点を持っています。少女の名が、数学の問題や和算書の編者として、はっきりと刻まれていることです。
彼女たちが江戸の数学界の中心だったとは言えません。しかし、少なくとも周縁に、確かに存在していたことは、現存する木板と書物が証言しています。
江戸の空の下で、筆をとり、円や三角形を描き、答えを考えていた少女たち。その姿は、史料の隙間からかすかに見えるだけです。
けれども、一度その存在に目を向ければ、「いなかった」と言い切ることはできません。数学史の余白に刻まれた少女たちの名は、今も静かに問いを投げかけています。