本能寺の変、原因は“金”だった?信長も直面した「資金繰り悪化」と天下取りの転落ルート (3/4ページ)
ちなみに、商業都市である尼崎からも徴収しようとしていますが、拒否された際には焼き討ちにしたという記録も残っています。
庶民には優しい一方、富裕層には容赦なく搾り取るというのが信長流の資金調達でした。特に寺社仏閣に対する冷淡な態度は極端なほどで、戦国大名で寺社に寄進するケースはあってもここまで露骨に取り立てた人はちょっといません。
しかも、それでも天下取りに必要な資金は足りませんでした。信長は永禄十二年に七か条の法令を発布し、金貨より銀貨のレートを高くするという、現代でいえばインサイダー取引に近い政策を行っています。
さらに生野銀山を武力で奪取しましたが、利益が出るまでには時間がかかり、信長の焦りは募るばかりでした。
資金難と家臣との関係野望が大きくなるほど必要な資金も増え、信長の財政は常に逼迫していました。
そして彼の資金繰りを任されていたのが家臣たちです。彼らは戦で得た領地を管理し、年貢を集め、軍資金を捻出する役割を担っていました。
特に明智光秀は、信長家中でも最大級の稼ぎ頭でした。