【豊臣兄弟!】松永久秀との因縁、織田信長に最後まで抗った三好三人衆・石成友通の壮絶な最期 (3/6ページ)

Japaaan

元服して主税助(ちからのすけ)と名乗り、はじめは京都郊外の西九条で下司を務めました。

その才覚が認められたのか、やがて三好長慶(ちょうけい/ながよし)に仕えます。

友通の名が歴史上に現れたのは天文19年(1550年)、訴訟を担当したり茶会に列席したり、長慶の奉行衆として頭角を現していきました。

天文22年(1553年)には丹波数掛山城に立て籠る波多野秀親(はたの ひでちか)の攻略に参陣します。

しかし香西元成(こうざい もとなり)や三好宗渭(奥田洋平)らの奇襲を受けて敗退しました。最初から三人衆がそろって仲間ではなかったのですね。

一時は討死したとの噂も流れましたが、永禄元年(1558年)には北白川の合戦に参陣。この時に三好宗渭が寝返り、仲間となりました。

その後も永禄2年(1559年)に大和国の筒井順慶(つつい じゅんけい)を攻め、永禄5年(1562年)には第13代将軍・足利義輝の警護を務めるなど、着実に軍歴を重ねます。

久秀との因縁、信長との対立

松永久秀(画像:Wikipedia)

永禄7年(1564年)に長慶が世を去ると、三好三人衆の一人として、家督を継いだ三好義継(よしつぐ)を補佐しました。

そして永禄8年(1565年)には足利義輝を殺害し(永禄の変)、畿内の主導権をめぐり松永久秀や畠山高政(はたけやま たかまさ)らと抗争を繰り広げます。

「【豊臣兄弟!】松永久秀との因縁、織田信長に最後まで抗った三好三人衆・石成友通の壮絶な最期」のページです。デイリーニュースオンラインは、香西元成石成友通畠山高政波多野秀親池田勝正カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る