『豊臣兄弟!』聖地巡り:豊臣秀長の城下町・大和郡山へ!菩提寺「春岳院」と墓所「大納言塚」を訪ねる

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『豊臣兄弟!』聖地巡り:豊臣秀長の城下町・大和郡山へ!菩提寺「春岳院」と墓所「大納言塚」を訪ねる

「郡山が大変なことになっているで」「そうなんや、えらいたくさんの人がおるで」。これは、桜の蕾が膨らみかけた3月中旬における、奈良市内の料理屋での会話です。

郡山とは、『豊臣兄弟!』の主役・豊臣秀長が統治した大和郡山のこと。インバウンドの影響もあり、東大寺や春日大社などが驚くほど混んでいる、という話からこんな会話になりました。

大和郡山市は、JR奈良駅から鉄道を使えばわずか4分で到着します。そう、奈良駅の隣なのです。ですが、奈良市民にとって大和郡山とは、買い物に行く町というイメージ。

これは、市内中心部に大規模な商業施設が少ない奈良市と異なり、郡山にはイオンモールなどがあるためです。しかし一方で商業施設は賑わっているが、大和郡山の街中はいつも静か、というのが奈良の人々の印象なのです。

もちろん、郡山が「えらいことになっている」のは、『豊臣兄弟!』の影響に間違いありません。これはもう、実際に行ってみなければというわけで、さっそく現地を訪れてみました。

というわけで、本稿を含めて数回にわたり豊臣秀長の城下町・郡山の魅力をレポート風にお届けします。

第1回は、秀長の菩提寺「春岳院」と、その墓所「大納言塚」を紹介しましょう。

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春岳院に安置される豊臣秀長の木像と位牌[左側](撮影:高野晃彰)

春の一日、秀長の面影を求め大和郡山へ

実は筆者、書籍などの仕事の関係で、年に3~4回は奈良県に赴いています。では、大和郡山はというと、奈良県南部を訪れた際に奈良市へ戻る通過点。

それも車の場合は、郡山市内の渋滞が激しいため、あえて避けることが続いていたのです。
とはいうものの、『豊臣兄弟!』の放送による大和郡山の盛り上がりはもちろん、気になる史跡・旧跡が多い郡山に、そろそろ訪れてみたいと考えていました。

そんなこともあり、料理屋での会話の翌日、さっそく秀長ゆかりの史跡を訪れるため、郡山へ出かけたのです。

郡山の城下町・箱本十三町の一つ紺屋町(撮影:高野晃彰)

JR郡山駅に着くと、電動アシスト自転車をレンタルするため、駅裏にある大和郡山市観光協会が運営する市民交流館「きんぎょの駅」へ向かいました。

郡山の秀長関係の史跡は、せいぜい3キロ四方の範囲に収まっているのですが、移動にはやはり自転車があれば便利。勝手に「秀長号」と名付けて、いざ出発!

史跡めぐりは徒歩が基本、という声が聞こえてきそうですが、自転車はエリアからエリアへの移動手段と考え、場合によっては駐輪場に停めて歩くのも一興です。

秀長の位牌を安置する菩提寺・春岳院

JR郡山駅からほぼ西へ真っすぐ進むと、道の中央に水路が通る紺屋町があります。この水路の水は、お城の堀から流れており、昔は染めた布や糸を晒していたとか。

その水路が途切れる辺りを北に進むと、豊臣秀長の菩提寺「春岳院」があります。同寺は、もとは東光院という真言宗の寺院で、創建は鎌倉時代中期とされるそうです。

春岳院の本堂と七重石造塔(撮影:高野晃彰)

そもそも秀長の位牌所は、大光院という寺院でした。しかし、豊臣家滅亡後、秀長と縁が深い藤堂高虎により、京都大徳寺塔頭として移建されます。

その折に秀長の位牌を託され、あわせて大納言塚の管理も委ねられたのが東光院でした。これを機に、秀長の戒名「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」から、現在の「春岳院」の院号に改めたそうです。

「春岳院」の存在はもちろん知っていました。でも、何はさておき真っ先に訪ねようと思ったのは、秀長の位牌所であるということはもちろん、テレビ大阪の旅番組『おとな旅あるき旅』で得た同院の情報があったからでした。

それによると、『豊臣兄弟!』の放送にあわせ、築315年の本堂を今年1月に改修。さらに、秀長の400回忌を記念して造られたという本堂内に安置される木造の秀長像と、秀長が町を治めていた当時の貴重な文献『箱渡し日記』も公開しているとか。これはもう、見るしかないでしょ!

箱本十三町が記された『箱渡し日記』(撮影:高野晃彰)

ご当地大河ドラマの放映のために本堂を改修するというと、何やら営利目的のように感じる人も多いのではないでしょうか。でもね、筆者は常々思うんです。歴史あるものはいつか潰える運命にある。だから、何かしらの機会があれば、それに乗じて手を加えるのも必要かと。

例えば、伊勢神宮の式年遷宮。あれだって、神様をもてなすために、古い社を新しく造り直しますよね。式年遷宮に対して、異を唱える人っていますか。お寺も同じじゃないですかと思うわけです。

ちょっと話が横道にそれました。「春岳院」では、秀長像、秀長の肖像画、秀長の位牌、『箱渡し日記』と、それら古文書を納めた御朱印箱を見ることができました。また、同院には南北朝作とされる足利尊氏の持念仏(千手観音)など、貴重な文化財があります。

さらに、本堂前には鎌倉中期の七重石造塔も立っています。基底部の四方仏は奈良朝形式の素朴な姿を残す仏さまで、聖武天皇の祈願造立との説もある貴重なものです。

拝観を終え、こちらも新たに設けられた納経所で御朱印を受けましたが「春岳院」、本当に大満足でした。

人々の願いに耳を傾ける墓所・大納言塚

では、続いて秀長の墓所である「大納言塚」に向かいましょう。「春岳院」から「大納言塚」までは、おおよそ1.5キロ。途中の道筋には郡山城跡があり、そこからは坂道が続くため、電動アシスト自転車が大活躍でした。

この日は日曜日だったため、たくさんの人が大和郡山を訪れていました。実は、この2日後に桜の満開シーズンにあわせた「お城まつり」が開催されるので、正直に言うと、休日とはいえ人出はそれほどでもないだろうと高をくくっていたのです。

多くの人々で賑わう郡山城跡天守台(撮影:高野晃彰)

ところが、本当に「えらいことになっている」状態でした。特に大和郡山城を訪れている人の多いこと。もちろん、すべてが史跡めぐりの人ではありませんが、あらためて『豊臣兄弟!』の影響力を感じました。

さて、「秀長号」は絶好調。歩きなら20分以上かかるところを、その半分で「大納言塚」に到着、と言いたいところでしたが、自転車の速さに任せて地図を確かめずに爆走したため、途中で迷ってしまい、結局は歩きより遅い30分ほどを要してしまいました。

1591(天正19)年1月22日、秀長は郡山城内で50年の生涯を閉じます。その亡骸は、兄・秀吉が建立した大光院の墓所に葬られ、同院が位牌所としてその菩提を弔っていました。

しかし、豊臣家が途絶えた後、その荒廃を恐れた藤堂高虎により京都大徳寺に移されたのは、先に述べた通りです。そして、新たに菩提寺となった「春岳院」が、位牌とともに墓所の管理を行いました。

秀長の墓所・大納言塚の五輪塔[高さ2m](撮影:高野晃彰)

ただ、墓地は一時期荒廃します。しかし、1777(安永6)年、春岳院の僧・栄隆や訓祥が郡山町中と協力して外回りの土塀を築き、五輪塔を建立し今日に至っています。

五輪塔は高さ2メートル。地輪の表面には秀長の戒名が刻まれているので注目しましょう。また、墓所前には「お願いの砂箱」があり、名前と願い事を唱えて3回砂を通すと願い事が叶うという伝承があります。

お願いの砂箱。この下に御砂が入っている(撮影:高野晃彰)

人の意見をよく聞き、吟味してから物事を判断したという秀長ならではの伝承ではないでしょうか。整備された墓所を見ると、いかに秀長が郡山の人々に想われているのか、よくわかる気がしました。

さて、豊臣秀長の城下町・大和郡山を深掘り探訪する第1回目は、このあたりで終了です。次回は、秀長ゆかりの神社と寺院を訪ねます。どうぞお楽しみに。

※この記事は現地取材に基づいて構成しています。

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