映画『国宝』の舞台・上方歌舞伎とは?大阪松竹座存続の裏で問われる未来 (2/4ページ)
明治期には、初代中村鴈治郎(安政7(1860)年~昭和10(1935)年)、二代目実川延若(明治10(1877)年~昭和26(1951)年)などの錚々たる俳優たちが舞台をにぎわせてきた。
時折、江戸・東京から当代随一の役者たちが上方入りした時には、街は祝福と歓迎に包まれた。
しかし太平洋戦争終結後、様子は一変する。
上方歌舞伎を支えてきた名優たちが次々と鬼籍に入り、中堅・若手の俳優たちは孤軍奮闘を強いられてしまう。また、戦後の大阪経済の大きな衰退の中で、それまで上方歌舞伎を支えてきた後援者が相次いで拠点を東京に移してしまったことも、上方歌舞伎凋落の要因のひとつであった。
大阪松竹座の行く末、上方歌舞伎の行く末
長く上方歌舞伎の拠点であり道頓堀の歌舞伎文化を守ってきた大阪松竹座が、今年の5月末で閉場する。
いや、「守ってきた」のではない、「踏みとどまっていた」が正しいか。
大正12(1923)年に、日本初の鉄筋コンクリート造りの洋式劇場として道頓堀に建設された大阪松竹座は、当初は「松竹楽劇部(現在のOSK日本歌劇団)」の公演や映画館として運用が主軸だった。
その後平成9(1997)年に2月に新築開場して以降は、歌舞伎をはじめ新劇、松竹新喜劇などの舞台芸術専用劇場として今日に至っている。
「道頓堀五座」無き後、そして戦後の混乱期を経て、道頓堀の歌舞伎文化の「牙城」となっていた松竹座。しかし建物の老朽化などにより、この5月の歌舞伎の公演を最後に閉館すると発表されていた。
大阪から、道頓堀から芝居の「灯」が消えるかもしれない…上方歌舞伎はどこへ行くのか…
「舞台があればどこでも公演できる」と言われれば、それまで。しかし歌舞伎は花道も必要であるし、BGMたる歌舞伎下座音楽を演奏する場所である黒御簾も必要である。だからこそ専用舞台の存在が重要なのである。
これからの暗澹たる行く末への不安が募る中、近づく閉場のタイムリミット…
そこに突然、大阪松竹座や大阪市は「形を変えて松竹座を存続させる」方針を決めた、という一報が入る。