『豊臣兄弟!』朝倉義景(鶴見辰吾)を見限り信長へ降伏…それでも救われなかった朝倉一門・織田景綱の末路 (2/4ページ)

Japaaan

越前国二宮)の神官であったと言われています。

通称は七郎。『朝倉始末記』によると義景の従兄弟とされていますが、この記述には裏づけがありません。

官途名(自称の官職)は兵庫助(ひょうごのすけ。兵庫介)を名乗っており、兵庫助景亮(かげすけ)や兵庫助景良(かげよし)とのつながりが考えられているようです。

恐らく兵庫助とは、その家に代々受け継がれる屋号のような感覚だったのでしょう。

一説には朝倉氏の初代当主である朝倉広景(ひろかげ)の子・中野愚谷(なかの ぐこく)の末裔とも考えられており、第11代当主の義景から見て非常に遠い親戚と言えます。

信長に攻められ義景を見限る

織田信長(画像:Wikipedia)

景綱が初めて登場するのは永禄2年(1559年)、義景の名代として上洛し、公卿の近衛前嗣(このゑ さきつぐ。近衛前久)と面会していました。

永禄13年(1570年)に信長が越前国へ侵攻した時は兵500を率いて河野口(こうのぐち。福井県南越前町)の守備に当たっています。

浅井久政(榎木孝明)の裏切りによって一度は信長を撃退したものの、その後は劣勢に追い込まれていきました。

天正元年(1573年)8月13日の刀根坂合戦(とねざか、福井県敦賀市)では、信長に敗れて木ノ芽峠(福井県南越前町)まで逃れてきた義景、態勢を立て直そうと兵を掻き集めます。

しかし景綱はこれを拒絶。兵をまとめて織田城へ引き揚げてしまいました。

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