『豊臣兄弟!』朝倉義景(鶴見辰吾)を見限り信長へ降伏…それでも救われなかった朝倉一門・織田景綱の末路 (3/4ページ)
事実上の離反と言えるでしょう。
越前一向一揆で国外逃亡
織田城へ帰還した景綱はそのまま信長に降伏し、本領を安堵されて織田城主としての地位を維持することができました。
しかし越前国内の情勢は不安定で、信長から守護代(事実上の国主)に任じられた桂田長俊(かつらだ ながとし。前波吉継)に対する不満がくすぶっていたようです。
明けて天正2年(1574年)1月に富田長繁(とんだ ながしげ)の煽動で土一揆が一斉蜂起。長俊を討ち取り、一ヶ月足らずで越前国を乗っ取ってしまいました。
しかし長繁の横暴ぶりに人心は離れ、2月には加賀国から招かれた七里頼周(しちり よりちか)や杉浦玄任(すぎうら げんとう)を担ぎ上げ、土一揆は一向一揆へと変貌します(越前一向一揆)。
長繁を滅ぼした一向一揆は留まるところを知らず、土橋信鏡(朝倉景鏡)を滅ぼし、ついに景綱の立て籠もる織田城にも攻め込んできました。
景綱は衆寡敵せず、城も将兵を捨てて、妻子だけを連れて舟で敦賀へ逃亡します。その後景綱がどんな末路をたどったか、はっきりしたことはわかっていません。
終わりにかくして朝倉景健(重岡漠)や朝倉景胤(かげたね)のように一向一揆へ降伏した者を除いて、越前国から朝倉一門はことごとく滅ぼされてしまいました。
ところで行方不明となった景綱ですが、実は生きていたとする説もあるようです。