わずか13歳で父を斬首、その刀で敵を返り討ち…戦国乱世に生きた少女の壮絶すぎる介錯
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第17回放送「小谷落城」では、お市(宮崎あおい)が、自害した浅井長政(中島歩)の介錯(斬首)を務めるシーンが話題となりました。
『豊臣兄弟!』お市の長政介錯は史実?義昭のその後、義景斬首の実際…怒涛の展開、第17回放送を考察実在したお市の方が浅井長政の介錯を務めたという記録はありませんが、戦国時代には介錯を務めた女性もいたようです。
今回は筑後国(福岡県南部)の戦国武将・黒木家永(くろき いえなが)が自害した際、その介錯を務めた女性のエピソードを紹介したいと思います。
父・黒木家永の生涯をたどる
彼女は元亀3年(1572年)に黒木家永の三女として誕生しました。実名は不詳、生母についてもよくわかっていません。
兄弟姉妹には黒木定実(さだざね)・黒木実元(さねもと)・黒木延実(のぶざね)・長女(丹波麟圭室)・次女(林包次室)らがいます。
黒木家は代々猫尾城(福岡県八女市)を治め、筑後国を代表する筑後十五城(ちくごじゅうごじょう)の一人に数えられる大身でした。
筑後十五城(石高順)
下蒲池(しもがまち)氏:柳川城(福岡県柳川市)12万石 上蒲池(かみかまち)氏:山下城(福岡県八女市)8万6千石 西牟田(にしむた)氏:西牟田城(福岡県筑後市)5万石 丹波(たんば)氏:高良山城(福岡県久留米市)2万石 黒木(くろき)氏:猫尾城(福岡県八女市)2万石 田尻(たじり)氏:鷹尾城(福岡県柳川市)1万6千石 五条(ごじょう)氏:矢部山城(福岡県八女市)1万4千石 溝口(みぞぐち)氏:溝口城(福岡県筑後市)1万石 高橋(たかはし)氏:下高橋城(福岡県大刀洗町)1万石 問注所(もんちゅうじょ)氏:長岩城(福岡県うきは市)1万石 星野(ほしの)氏:妙見城(福岡県うきは市)1万石 河崎(かわさき)氏:犬尾城(福岡県八女市)1万石 草野(くさの)氏:発心城(福岡県久留米市)9千石 三池(みついけ)氏:今山城(福岡県大牟田市)8千石 三原(みはら)氏:本郷城(福岡県大刀洗町)7千石父の代までは豊後国(大分県)の戦国大名・大友氏に仕えていましたが、家永の代になって対立するようになりました。
永禄7年(1564年)に大友氏の侵攻を受けた家永は、寡兵ながら善戦しますが、ついに降伏。大友氏に臣従することを余儀なくされます。
しかし天正6年(1578年)の耳川合戦(みみかわ。宮崎県木城市)で、大友氏が薩摩国(鹿児島県西部)から勢力をのばしてきた島津氏に大敗を喫すると、筑後国に対する支配力を失ってしまいました。
そこへ肥前国(佐賀県・長崎県)の龍造寺氏が西から筑後国を脅かすようになり、家永はやむなく竜造寺氏に臣従します。
しかし天正12年(1584年)に沖田畷合戦(おきたなわて。長崎県島原半島)で龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)が敗死すると、これを好機と見た大友氏が再び筑後国へ侵攻してきました。
家永は猫尾城に立て籠もり、龍造寺と連携しながら抵抗を続けましたが、ついに兵糧も底を尽いてしまいます。最早これまで……家永は自害して果てたのでした。享年60歳。
父を斬首したその刀で……
この時に家永の介錯を務めたのが、まだ13歳の三女でした。当時の様子を『毛利秀包記(ひでかねき)』はこう伝えています。
……彼(かの)黒木事、豊後大友公へ度々たてつき申付而(もうしつけて)、御人数(ごにんず)被差向(さしむけられ)候へ(そうらえ)とも、黒木城(くろきがしろ。猫尾城)以之外(もってのほか)難所故、落城不仕付(らくじょうつかまつらざるにつき)……(中略)……黒木手勢壱人(ひとり)も不残(のこらず)討死仕(つかまつり)、黒木、三番目娘、歳十三ニ罷成(まかりなり)候を召連、二階へ取上り、数人切臥(きりふせ)、其後(そののち)切腹仕候。彼娘、父がかいしやく仕、其刀にて敵壱人切、父の首と刀を二階より下へなけ(投げ)申候。其後、彼娘を生捕(いけどり)にして麟慶(丹波麟圭)方へ被成御渡(おわたしなされ)候。彼娘後肥前鍋島殿御家来大木兵部少輔女(妻)にて候……
※『毛利秀包記』
【意訳】黒木家永は大友家に度々反抗したため、軍勢を差し向けたが、その城は堅牢であったためなかなか陥落しなかった……(中略)……家永の手勢は一人残らず討死してしまったため、家永は13歳の三女を連れて城の二階へ上がり、数人を斬り捨ててから切腹。三女は父の介錯を務め、その刀で敵の一人を斬り捨て、二階から城外に向かって家永の首級と刀を投げ捨て、降伏の意思を示す。間もなく生捕りにされた三女の身柄は、長姉の婚家である丹波麟圭の元へ引き渡された。三女は後に大木統清(おおき むねきよ。兵部少輔)の妻となったのである。
……人の首を斬るというのは、ただ刀を振り下ろせば事足りるものではありません。きちんと苦しませずに斬首するには、相当の腕前が求められました。わずか13歳の彼女にはそれだけの腕があり、日頃から鍛錬を重ねていたことがわかります。
そして父を斬った刀で襲い来る敵一人を返り討ちにし、城の二階から父の首級と刀を放って寄越す豪胆ぶりを示しました。
極限状況における冷静な太刀筋とあわせて、ひとかどの人傑であったと言えるでしょう。
終わりに今回は父の介錯を務めた戦国女性・黒木家永女(大木統清室)のエピソードを紹介してきました。自分の手で父親の命を絶たねばならなかった無念は、察するに余りあります。
しかし、もし彼女が男性に生まれていたら、武将として名を馳せていたのではないでしょうか。
戦国乱世に活躍した女性のエピソードは他にも多く伝わっているので、また改めて紹介したいと思います。
※参考文献:
吉永正春『筑後戦国史』葦書房、1983年12月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

