『豊臣兄弟!』松永久秀(竹中直人)は本当に悪人だったのか?家臣たちに慕われた戦国武将の意外な素顔 (4/12ページ)

Japaaan

信長の意を受けた友閑は、『織田軍記』によれば、「何ようの仔細か、存分申上げ候へ、委細聞届けせれ、御裁許あるべきの由」、つまり「きちんと説明すれば信長公はきっと許してくれる」と述べたと記されています。

この信長の処置は、二度まで裏切った久秀に対して異例のものであり、それだけ久秀の能力を買っていたとの説もあります。しかし、久秀は信長の説得を断固拒絶したのです。

信貴山城における家臣たちの壮絶な戦い

久秀の態度に怒りを爆発させた信長は、嫡男・信忠を総大将に佐久間信盛、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、筒井順慶など織田家主力軍4万を信貴山城へ差し向けます。対する松永軍は総勢約8千5倍の兵力を信貴山城とその支城で迎え討ちました。

松永弾正久秀/歌川貞秀画(Wikipedia)

久秀が信長から大和一国の支配を許されていた頃は、その所領は約45万石、兵力として1万3千人ほどは動員可能でした。しかし、多聞城を失った当時の久秀には、とてもそんな大軍を動かすことはできません。それでも、久秀のもとには20万石を遥かに超える8千という軍勢が集まったのです。

そして10月1日、筒井順慶を中心とする織田軍は信貴山城の支城・片岡城に5千の軍で襲い掛かります。松永軍は、海老名勝正、森秀光らが約1千の兵で守備。

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