『豊臣兄弟!』信長を裏切る荒木村重(トータス松本)…逃亡の果てに待っていた700人処刑の悲劇 (6/8ページ)
哀れなる次第中々申し足らず”(Wikipediaより)
摂津国からの逃亡と晩年1580年。花隈城に移った村重は、追撃してきた織田方の重臣・池田恒興軍と2度にわたって交戦している。織田軍は2度目の戦いで花隈城を開城させることに成功するが、村重はしぶとく逃亡し毛利氏を頼って西国に落ち延びた。
1582年に信長が横死すると、村重は堺に戻り居を構えたという。晩年は秀吉の元で茶人として活動したという記録も残っている。1586年に堺で死去。享年52。
有岡城の戦いの記念碑(Wikipediaより)
謀反の謎
村重が信長を裏切った利用は現在でも判明していない。謀反の理由には信長との不仲説や、足利義昭の陰謀説など諸説あるが、どれも確証は得られていない。
比較的信憑性の高いものとして、摂津国の支配体制に関する説を上げることができる。摂津国は土着の国衆の勢力が強く、摂津を支配下に収めようとしていた信長に対する反感の気運が高い土地だった。
摂津国を任されていた村重は、信長と自国勢力との間で板挟みとなり、結果的に信長を裏切る選択をしたというものだ。
逃亡の理由謀反の理由は定かでないが、戦国の世における裏切りや下克上は珍しいことではない。村重に関して特徴的であるのは、むしろ「逃亡劇」だろう。