【豊臣兄弟!】上月城に入った尼子勝久(渡邉蒼)とは?山中幸盛と尼子再興を夢見るも悲劇的な末路をたどる (3/5ページ)

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そうこうしていると、永禄13年(1570年)1月に毛利輝元(濱正悟)を総大将に、吉川元春(きっかわ もとはる)・小早川隆景(こばやかわ たかかげ)らが出雲国へ兵を出してきました。

勝久らは布部山で毛利勢と決戦に挑むも敗北し、出雲国を放棄して京都まで敗走します。

再び時機をうかがいながら、天正2年(1574年)に但馬国の山名豊国(やまな とよくに)と連合で出雲攻略に乗り出しますが、返り討ちにされてしまいました。

ここで勝久は自力での尼子再興を断念し、織田信長(小栗旬)の力を借りるため、臣従することとなります。

上月城の戦いで自刃

落合芳幾「太平記英勇傳 尼子四郎勝久」

かくして織田家臣となった勝久は、羽柴秀吉の部将として中国攻めに参陣しました。

そして天正5年(1577年)に秀吉が播磨国上月城を攻略すると、その守備を命じられます。

しかし天正6年(1578年)、毛利勢と宇喜多勢の連合軍3万が上月城へ侵攻してきました。秀吉は三木城攻めで兵力を割けず、勝久らに上月城を放棄するよう伝えます。

しかし勝久は「ここで退いてなるものか」とばかり、秀吉の要請に従いません。

大軍に包囲された勝久らは死力を尽くして抗戦するも、武運つたなく降伏の憂き目をみます。

開城に際して勝久は自刃、嫡男の尼子豊若丸(とよわかまる)や長兄の尼子氏久(うじひさ)、家臣の神西元通(じんざい もとみち)らもこれに殉じました。

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