『豊臣兄弟!』秀吉(池松壮亮)の無断撤退、実は信長(小栗旬)の命令だった?中国攻めに隠された驚きの大戦略 (3/6ページ)

Japaaan

謙信は長年にわたり越中の一向一揆と戦っていたが、信長との戦いで苦境に陥った顕如が謙信に援助を求めたことがきっかけになったとされる。

本願寺との和睦によって後顧の憂いを断った謙信は、越中・能登の支配を固め、およそ100万石規模の勢力を築いた。しかし本願寺と和睦することは、結果的には織田との決別を意味した。

このような謙信の動向に対し、信長は柴田勝家(山口馬木也)を総大将に越後に軍を送る。援軍として出陣していた秀吉が無断撤退をしたのはこの時であった。勝家はこの直後、手取川の戦いで手痛い敗戦を喫することになるのだが……。

そして謙信に呼応するように、輝元はもちろん、その麾下である備前・美作の宇喜多直家(緋田康人)、大坂の石山本願寺、大和の松永久秀、さらに長篠の戦では大敗を喫したものの着々と勢力を回復していた甲斐の武田勝頼が加わり、ここに第三次信長包囲網が完成した。

松永久秀。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

信長は三度、四方を敵に囲まれるという状況に陥ったのである。しかし、信長はこの事態に対し冷静に対応した。先ずは畿内の反信長勢力の駆逐を開始し、大和信貴山城に籠る松永久秀を攻め滅ぼす。

そうして信長は、毛利氏の影響下にある中国地方攻略の司令官として秀吉を抜擢するのである。実はそこには驚くべく、信長と秀吉による大戦略が隠されていたのだ。

信長と秀吉が描いた播磨攻略のシナリオ

秀吉と秀長(仲野太賀)が播磨入りしたのは、1577年(天正5年)10月23日とされる。

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