源平合戦期にもいた“傾奇者”毛利太郎景行とは?和田合戦で壮絶な最期を遂げた知られざる生涯 (2/5ページ)
このように文武両道の名君でありながら、景行は自由気ままな洒落者でもありました。
あえて小さな館を建てて「すすがき小屋」と名づけ、それが煤ケ谷(すすがや。清川村)の地名となっています。
すすがきの意味は諸説あり、虫除けのために燻して煤けた粗末な垣根とも、簀垣(すがき。簀子のように粗い造り)や菅掻(すががき。和琴の奏法)とも考えられるでしょう。
しかし当人にしてみれば、そんな細かいことはどうでもよかったのかも知れません。人生はノリが一番です。
ふと思い立てば馬を駆って白山(はくさん。清川村と厚木市の境)の松風を浴び、暑ければ細入川(ほそいりがわ。詳細不明、清川村か)に飛び込むような気ままさが身上でした。
ちなみに現代も残る御門(みかど)・御所垣内(ごしょがいち)などの地名は景行の館に由来するそうです。
すすがき小屋と言いながら実は広い豪邸に住んでいたのか、あるいは本当に館は小さくても「領内のこの辺りまで我が館も同然」と自他ともに認められていたのでしょうか。ここまで紹介してきた景行であれば、後者のような気がしてなりませんね。
また景行は信仰心も厚く、治承年間(1177〜1180年)に京都の石清水八幡宮から八幡大菩薩を勧請、八幡神社を創建しました。その故事にちなんで、現代も宮野(みやの)という地名が伝わっています。
※現在の八幡神社は、子供の毛利小太郎と毛利小次郎が、現在地(煤ケ谷八幡)へ遷座しました。