源平合戦期にもいた“傾奇者”毛利太郎景行とは?和田合戦で壮絶な最期を遂げた知られざる生涯 (3/5ページ)

Japaaan

鎌倉殿三代に奉公、和田合戦で討死

石橋山の合戦。勝川春亭筆

治承4年(1180年)に源頼朝が伊豆で挙兵すると、平家の被官であった景行は、鎌倉一族の惣領であった大庭三郎景親(おおば さぶろうかげちか)に与します。

一度は石橋山の合戦で頼朝らを撃破するものの、取り逃したためわずか2ヶ月で逆転されてしまいました。

大庭景親は降伏して処刑の憂き目に遭い、鎌倉一族はじめ坂東平氏らは続々と頼朝に臣従します。

景行も頼朝に臣従して本領を安堵され、永く毛利荘を統治しました。

恐らくは領民たちもそれを喜んだことでしょう。あるいは人望の厚い景行を処断・追放すれば、領民たちの反発が懸念されたから、手を下せなかったのかもしれません。

その後、景行は頼朝・頼家・実朝と鎌倉殿三代に仕えました。

しかし毛利一族に大きな転機が訪れます。時は建暦3年(1213年)5月2日、侍所別当の和田義盛が挙兵し、景行はこれに加勢しました。

鎌倉殿に弓を引くことになりますが、これも執権の北条義時を討たんがため。後世に伝わる和田合戦の勃発です。

恐らくは景行も北条の専横に憤り、義盛の義に呼応したのでしょう。

しかし時に利あらず、義盛はじめ和田一族は壊滅。景行も小太郎・小次郎ともども討死して果てたのでした。

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