源平合戦期にもいた“傾奇者”毛利太郎景行とは?和田合戦で壮絶な最期を遂げた知られざる生涯 (4/5ページ)

Japaaan

エピローグ

和田合戦。二代目歌川豊国筆

『吾妻鏡』によれば、和田合戦における毛利主従の討死は以外の通りです。

一 毛利人々

毛利太郎 同小太郎 同小次郎 森邊五郎 甥一人 彦一人 澁河左衛門 同小次郎 同左衛門太郎 同次郎
以上十人

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月6日条

毛利太郎景行 毛利小太郎 毛利小次郎 森辺五郎(もりべ ごろう) その甥(同姓とは限らない) その彦(五郎自身の孫?甥孫?) 渋河左衛門(しぶかわ さゑもん) 渋河小次郎 渋河左衛門太郎 渋河次郎

果たしてこれが全員=全滅だったのか、あるいは毛利一族の生き残りがいるのか、詳しいことはわかっていません。

かくして毛利一族は滅亡し、その所領であった毛利荘は政所別当の大江広元が領するところとなりました。

その後に広元の四男である大江季光(すえみつ。四郎将監)が受け継ぎ、やがて毛利の苗字を名乗ります。

そして西国へ下り、戦国時代に中国地方の覇者となる毛利氏の祖となったのでした。

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