『豊臣兄弟!』千利休の登場は近い?織田信長・豊臣秀吉に仕えた“茶聖”の知られざる前半生 (2/4ページ)

Japaaan

利休の名は最晩年に号したもので、生涯の大半は宗易を名乗っていました。

また母親は月岑妙珎(げっしん みょうちん)、妹に宗円(そうえん)がいます。

魚屋では塩漬け魚を商ったり、貸し倉庫業を営んだりしたそうですが、19歳となった天文9年(1540年)に父を失うと稼業が没落してしまいました。

父と前後して祖父も亡くしており、すっかり落ちぶれてしまったために祖父の七回忌法要も営めず、泣きながら墓掃除をしたという日記が残っています。

そんな与四郎が茶の湯に接したのは天文7年(1538年)、17歳で北向道陳(きたむき どうちん)に師事し、後に武野紹鴎(たけの じょうおう)へ弟子入りしました。

実は武野紹鴎ではなく、辻玄哉(つじ げんさい)であったという説もあるようです。

やがて茶人として成長した与四郎は天文13年(1544年)ごろまでに千宗易と号し、天文13年(1544年)に茶会デビューを果たしました。

一方で三好氏に接近し、その御用商人となって財産形成にも余念がなかったと推測されています。

そんな宗易が信長と出会ったのは永禄12年(1569年)ごろ。信長が堺を掌握する中で、豪商の今井宗久(和田正人)・津田宗及(マギー)らと共に茶堂(さどう。茶の湯師範)として召し抱えられました。

天正2年(1574年)3月には、信長が相国寺(京都市上京区)で開いた茶会に招待された記録が残っています。

また宗易は堺の会合衆(えごうしゅう。自治組織)にも加わったと考えられ、天正3年(1575年)の越前一向一揆討伐では、織田軍に供給する銃弾調達の役割も果たしました。

宗易は茶人としてだけでなく、死の商人としての顔も持っていたようです。

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