【豊臣兄弟!】本能寺で信長に一番槍!森蘭丸を討ち取った武将・安田作兵衛の壮絶な生涯 (4/6ページ)
本能寺の変で信長を取り逃がした作兵衛。楊洲周延「織田信長 安田作兵衛」
しかし光秀が山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、落ち武者狩りで生命を落とすと、作兵衛は牢人となりました。
天野源右衛門(あまの げんゑもん)と改名した作兵衛は、羽柴秀勝(秀吉の養子)・羽柴秀長(小一郎)・蒲生氏郷(がもう うじさと)に仕えます。
しかしどの家でも上手く行かなかったようで、各地を転々と渡り歩くことになりました。武辺者ゆえに人付き合いは苦手だったのかもしれません。
さらに立花宗茂(たちばな むねしげ)や、従兄弟の寺沢広高(てらざわ ひろたか)に仕え、九州征伐や朝鮮征伐(文禄・慶長の役)で武功を立てています。晩年は平野と改姓し、寺沢家臣として生涯に幕を下ろしました。
作兵衛の没年については諸説あるそうで、『翁草』では慶長2年(1597年)6月2日、信長の祟りで発狂・自害したと言います(厳密には顔面の腫瘍を苦にしての自害)。本能寺の変からちょうど15年後だったので、人々がそう噂したのでしょう。
一方『美濃国諸家系譜』では、光秀の17回忌となる慶長3年(1598年)6月14日に追腹を切った(光秀に殉じた)と伝わります。
