世界遺産決定で脚光!日本初の巨大都城・藤原京を創り上げた知られざる女帝・持統天皇の凄絶な執念 (3/5ページ)
天武天皇は、豪族ごとに分かれていた支配秩序を再編。天皇を中心とする国家制度を整えようとしました。
天武10(681)年には律令編纂を命じ、天武13(684)年には新しい宮室の予定地を定めています。
『日本書紀』には、天武5(676)年の段階ですでに新都造営へ動き始めていたとみられる記事もあります。
発掘調査でも、藤原宮の建物や運河より古い道路跡である「先行条坊」が確認されています。本薬師寺の下からも同様の道路が見つかっているため、藤原京の道路網は持統天皇の時代に突然造られたのではなく、天武朝から段階的に工事が進められていたと考えられます。
朱鳥元(686)年に天武天皇が崩御すると、皇后はただちに即位せず、天皇に準じて政務を執る「称制」を行いました。
同年には大津皇子が謀反の疑いで死を賜り、持統3(689)年には皇位継承者だった草壁皇子も亡くなります。皇后は同年に飛鳥浄御原令を施行し、翌持統4(690)年に即位しました。
即位した年には、全国的な戸籍である庚寅年籍が作成されました。
戸籍は、人々の身分や家族構成を把握し、口分田の支給、租税、兵役などを運用する基礎となるものです。
法律、戸籍、官僚組織を実際に機能させるには、多数の役人が働き、地方からの報告や税を集められる恒久的な行政都市が必要でした。
藤原京造営は、宮殿の新築にとどまらない国家制度の整備だったのです。