【豊臣兄弟!】三法師には弟が!キリシタンとなり豊臣家滅亡を見届けた織田信忠の次男・織田秀則の生涯 (2/5ページ)

Japaaan

本能寺の変が起こった天正10年(1582年)時点でまだ2歳の幼児ですから、恐らく異母兄の三法師とともに保護されていたのでしょう。

やがて元服して通称を左衛門尉(さえもんのじょう)と名乗りました。諱は秀則のほか織田秀利(ひでとし)とする史料もあります。

後に従四位下(じゅしいのげ)・侍従(じじゅう)に叙せられ、そのため御吉侍従ともあだ名されていたそうです。

ちなみに織田家とゆかりの深い津田家を継いで津田忠信(つだ ただのぶ)と称した説もありますが、全くの別人説もあって定かではありません。

ともあれ秀吉に仕えて大坂(大阪府大阪市)に住み、秀吉の計らいで羽柴秀勝(秀吉の姉ともの次男で養子。小吉秀勝)の娘を妻に迎えます。

秀吉としては、織田家の男児を他家に担がれないよう、抱え込んでおきたかったのでしょう。

秀則と彼女の間には一人娘(小笠原因幡守側室)が生まれています。

キリシタン「パウロ」となる

織田秀信(画像:Wikipedia)

やがて思うところあったのか、秀則は慶長元年(1596年)ごろに洗礼を受けてキリシタンとなりました。洗礼名をパウロと言い、同時期に兄の秀信も洗礼を受けています。

宣教師ルイス・フロイス(フェルナンデス直行)は秀則に対して「素性を知らずに彼と少し話した場合、その品格によりドイツの貴族と判断してしまう」と評しました。

「【豊臣兄弟!】三法師には弟が!キリシタンとなり豊臣家滅亡を見届けた織田信忠の次男・織田秀則の生涯」のページです。デイリーニュースオンラインは、織田兵部津田藤右衛門津田忠信津田信益関ヶ原の合戦カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る