【豊臣兄弟!】三法師には弟が!キリシタンとなり豊臣家滅亡を見届けた織田信忠の次男・織田秀則の生涯 (3/5ページ)
ドイツ貴族がいかなるものかは詳しくわかりませんが、恐らく秀則は気品と威厳を兼ね備えた人物だったのでしょう(ドイツに対するイメージ)。
ただしフロイスはキリスト教に入信するなど好意的な≒自分たちに都合のよい人物をベタ褒めする一方、棄教した人物をボロッカスにこき下ろす傾向が見られます。
そのため、いくらかのリップサービスが含まれている可能性は否定できません。
かくしてキリシタンとなった秀則ですが、完全に仏教と絶縁する原理主義者ではなく、慶長3年(1598年)に見性院(けんしょういん)を創建しました。
見性院は父・信忠が亡くなった京都妙心寺の塔頭であり、桂春院(けいしゅんいん)として今日まで現存しています。
関ヶ原では西軍に与する
慶長3年(1598年)に秀吉が世を去り、豊臣政権が東西に二分されると、秀則は兄の秀信と共に石田三成(松本怜生)率いる西軍に与しました。
そして慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が始まると、兄の居城である岐阜城に立て籠もり、東軍を迎え撃ちます。
『江源武鑑(こうげんぶかん)』によると秀則(織田左衛門)は織田兵部(ひょうぶ)や津田藤右衛門(とうえもん)らと共に武勲を立てたそうです。
しかき本書は偽作の可能性が指摘されており、また他の史料に記録がないため、確かなことかはわかりません。