【豊臣兄弟!】三法師には弟が!キリシタンとなり豊臣家滅亡を見届けた織田信忠の次男・織田秀則の生涯 (4/5ページ)
ともあれ奮戦むなしく徳川家康(松下洸平)率いる東軍に敗れ去った秀信と秀則兄弟は、刃向かった罰として改易(所領を全没収)されてしまいました。
行く先もないので秀則は豊臣家を頼って大坂へ舞い戻ます。旧主の血筋ということで、いくばくかの俸禄に与っていたのでしょう。
豊臣家の滅亡を見届ける
しかし慶長19年(1614年)に大坂の陣(冬の陣)が勃発し、翌慶長20年(1615年)に豊臣家が滅ぼされてしまいました(大坂夏の陣)。
秀則は追手を逃れて京都へ移り住み、出家して宗爾(そうじ)と号します。
異説として津田信益(のぶます)と改名したとも言われますが、別人の可能性もありハッキリしません。
晩年は京都で静かに暮らし、寛永2年(1625年)10月27日に45歳で世を去りました。戒名は拾松院英厳雄公(じゅうしょういん えいげんゆうこう)とのことです。
織田秀則・基本データ 生没:天正9年(1581年)生~寛永2年(1625年)10月27日没(45歳) 両親:織田信忠/生母不詳 兄弟:織田秀信(三法師、異母兄) 改名:吉丸→秀則→宗爾(出家)→英厳(戒名) 別名:織田秀利、津田忠信、津田信益(諸説あり) 霊名:パウロ 通称:左衛門尉、御吉侍従 官位:従四位下、侍従 主君:羽柴秀吉→織田秀信→豊臣秀頼 終わりに今回は織田信忠の次男で三法師(織田秀信)の弟である織田秀則について、その生涯をたどってきました。
兄と共に織田政権の再興を夢見ながら豊臣政権に呑み込まれ、その豊臣政権もまた徳川政権に滅ぼされる世の無常を痛感させられたことでしょう。