『逃げ上手の若君』時行のライバルで共闘者?足利尊氏との戦いに全てを捧げた諏訪頼継の生涯【後編】 (2/7ページ)

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翌正平4年/貞和5(1349)年には、頼継のいる信濃国内においても直義と師直による陣営分裂が起こっています。

信濃守護職・小笠原政長(貞宗の嫡男)は尊氏・師直派閥に所属。祢津氏・知久氏が直義派として活動しています。

このとき、頼継が選んだのは足利直義への接近でした。

正平6年/観応元(1351)年12月15日、頼継は「信濃守頼嗣」の名で諏訪大社の神長官・守矢氏に祈願を依頼しています。

翌正平7年/文和元(1352)年1月、小笠原政長の書状の中に「信濃守直頼」という名前が登場しています。

これら二つの名前は「信濃権守」を称した頼継と同じ官途(かんと。官位の来歴)です。つまり頼嗣と直頼は、頼継の別名、あるいは改名した名前と考えられています。

諏訪系図の一部でも「信濃権守頼継」の項に「改頼継又頼寛又直頼」とあります。

この改名は何を指すのでしょうか。

このうち「直頼」の「直」は、足利直義から偏諱を受けたものという考え方です。

頼継は中央の勢力争いに乗じる形で信濃での足場を固め、少しずつ勢力を拡大すべく動いていました。

足利直義。尊氏の覇業を支えるが、次第に対立を深めていく。直義とのつながりは、頼継をさらに深い戦乱の渦に巻き込んでいった。

観応の擾乱勃発!頼継、信濃国守護所へ攻め入る

中央政権での争いは、頼継の近隣諸国との関わりにも影響していきます。

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