『逃げ上手の若君』天皇暗殺を企てた公卿・西園寺公宗の悲劇―実弟の密告、妻の目の前で訪れた最期【後編】 (2/5ページ)
元弘3年/正慶2(1333)年6月12日、公宗は権大納言を辞任。これには抗議や政治的な圧迫を避ける意図もあったと思われます。
しかし大叔母である中宮・西園寺禧子との関係もあり、同年8月15日には再び権大納言に復帰。公卿としての地位を保ったかに見えました。
ところが同年10月12日、中宮・西園寺禧子が崩御。公宗がは政治的庇護者を失ってしまいました。
しかし11月には中宮大夫(中宮の世話をする役職)を兼任。次の中宮・珣子内親王(しゅんし・ないしんのう)の生母は、西園寺家出身の西園寺寧子(公宗の叔母)でした。
公宗は辛くも後醍醐天皇との繋がりを維持。しかし以前ほどの政治力は見る影もありません。
そこで自身の不遇な状況を打開するため、ある人間とつながりを持つことを選びます。それは公宗にとって希望と破滅の入り口でもありました。
後醍醐天皇暗殺計画?持明院と大覚寺統の統一?公宗が選んだ結末は…
政治的地位を回復するため、公宗は建武政権の転覆を計画していきます。
建武元(1334)年、公宗は北条泰家を屋敷に匿いました。泰家は北条高時の弟で、北条得宗家の血を引く人物です。
鎌倉幕府滅亡後、泰家は追われる身の上となっていました。その泰家と旧知であった公宗は、ともに建武政権を倒す方策を練っていきます。
公宗と泰家が計画していたのは、後醍醐天皇の暗殺計画でした。