『逃げ上手の若君』天皇暗殺を企てた公卿・西園寺公宗の悲劇―実弟の密告、妻の目の前で訪れた最期【後編】 (3/5ページ)
計画では、後醍醐天皇を西園寺家の山荘(のちの金閣寺こと鹿苑寺)に招いて、そこで亡き者にするというものです。
公宗は日野資名(公宗の妻・日野名子の父)、義弟・日野氏光らにも計画を相談。このうち日野資名は、光厳法皇(公宗の従兄弟)の乳人という立場でした。
計画成功後には、公宗は後伏見法皇(持明院統出身。珣子内親王の父)を擁立しての新帝即位まで考えていたと言います。
実際、当時の建武政権においては内外から不満が蓄積しており、十分勝算があると踏んでいたようです。
しかし公宗はまだ計画に踏み切りません。
当時、叔母・珣子内親王が妊娠。生まれて来るのが皇子であれば、持明院統と大覚寺統、そして西園寺家の血を引く将来の天皇候補者となります。
建武2(1335)年3月、珣子内親王は皇女を出産。ある意味、日本の歴史が定まった瞬間でもありました。
同年4月、公宗は兵部卿(軍事防衛の長官)に叙任。軍権を預かる立場となりました。
公宗は後醍醐天皇とあまり良い関係ではないものの、しっかりと配慮されていたことがわかります。
しばらく練っていた計画ですが、こういう事情もあってか、実行に移せずになっていました。
やがて公宗に運命の日が訪れます。
同年6月22日、公宗による後醍醐天皇暗殺計画が露見。発覚したのは、公宗の弟・公重による密告でした。
武者所から楠木正成と高師直らが出動。公宗ら陰謀に関わった者たちの捕縛にあたりました。
『太平記』では、京で公宗と泰家が挙兵し、東国で北条時行、北陸で名越時兼らが兵を挙げるという全国規模の反乱計画があったともされています。
これらは史料的裏付けはく、公宗の官職や影響力や交友関係から想像されたものでしょう。