『逃げ上手の若君』時行の叔父も逃げ上手?北条泰家の生涯―最後まで抵抗した鎌倉武士の生き様【前編】 (2/5ページ)
通り字を諱に使えるのは、一族の有力者や家督相続候補者として位置付けられた人間です。
元服後には従五位下、左近将監に叙任。朝廷から官位を賜っており、その官途から将来を期待されていたことがわかります。
実際、泰家にはその機会が訪れることとなりました。
正中3(1326)年、兄・高時が病のため執権職を辞職。後任の候補となったのが時利こと泰家でした。
高時と同母兄弟であり、有力な外戚である安達氏が推薦。生母の覚海円成も推しています。
しかし得宗家内部で力を持つ内管領・長崎高資が反対。金沢流北条氏の金沢貞顕を15代執権に据えました。これが世にいう嘉暦の騒動です。
泰家はこれに反発して出家を断行。従う人々が続いて出家するという事態となります。
こうした緊張の中、就任10日余りで金沢貞顕は執権を辞職。赤橋流北条氏出身で引付衆一番頭人の赤橋守時が16代執権となりました。
鎌倉時代末期となると、北条得宗家の血統だけで執権を決めることは出来なくなっています。
代わりに台頭してきたのが御内人の長崎氏であり、ここに幕府の制度疲労が見て取れます。
そしてこの人事の結末が、泰家の人生さえ変えていくこととなります。

北条泰家は北条高時の同母弟として生まれ、執権になる可能性もあった(写真は鎌倉の鶴岡八幡宮)。
倒幕計画発覚!泰家は幕府軍の大将として新田義貞を迎え撃つ泰家の人生の転機が訪れたのは、朝廷と幕府の関係の変化によってでした。
元徳3(1331)年4月、後醍醐天皇による倒幕計画が発覚。