『逃げ上手の若君』時行の叔父も逃げ上手?北条泰家の生涯―最後まで抵抗した鎌倉武士の生き様【前編】 (3/5ページ)
長崎高貞(高資の弟)が追討使として京へ派遣されました。
後醍醐天皇は京を脱出して笠置山に籠城。これに楠木正成が呼応して赤坂城で挙兵します。
これが世にいう元弘の乱の始まりでした。
鎌倉幕府は鎮圧に手間取り、求心力が大きく低下。やがて有力御家人たちの離反を招くこととなります。
元弘3/正慶2(1333)年5月、御家人・新田義貞が上野国で倒幕方として挙兵。鎌倉を攻めるべく軍勢を南下させます。
泰家は鎮圧軍の大将を拝命。泰家軍は武蔵国方面へと進軍して、分倍河原で副将の桜田貞国と合流します。
『太平記』などでは新田軍を20万、泰家軍を15万と記載。しかしこれは誇張されている数字と見るのが当然です。
実際は両軍それぞれ1万人〜2万人ほどでしょう。それでも当時としてはかなりの大軍であったことは間違いありません。
5月15日、泰家軍は新田義貞の軍勢と衝突。一度は新田義貞を敗走させることに成功します。
しかしこの一度の勝利が泰家軍に油断を生じさせました。
翌16日早朝、幕府側への援軍となるはずだった三浦一族の大多和義勝による裏切りが発生。分倍河原の泰家軍は総崩れとなって敗走しました。
泰家は家臣・横溝八郎による奮戦(横溝は討死)によって逃走に成功。鎌倉に戻ります。
しかし新田義貞の大軍は、すぐそこまで迫っていました。北条一族の命運はもはや風前の灯火となっていたのです。
5月18日、新田義貞が鎌倉に進行を開始。北条方は懸命に防ぐものの、22日に鎌倉内部に乱入を許してしまいました。
泰家の兄・北条高時は菩提寺である東勝寺で一族郎党とともに自刃。北条得宗家および鎌倉幕府はここに滅亡しました。
泰家は自刃することはせず、甥の北条時行(高時の子)を逃がす行動に出ています。