『逃げ上手の若君』時行よりも逃げ上手!叔父・北条泰家が魅せた生存への執着と衝撃の結末【後編】 (2/5ページ)
しかし政権の運営は、少しずつ暗礁に乗り上げて行きます。
武士に対する恩賞の沙汰が遅滞する一方、後醍醐天皇に近しい公家には優先的に昇進や土地の分配が行われました。
後醍醐天皇の住まいである大内裏の造営においては諸国への増税も決定。民からの不満も上がり始めていきます。
建武元(1334)年、泰家は身分を隠して京の都に潜伏。旧知の仲である西園寺公宗の屋敷に匿われていました。
西園寺家は代々、関東申次という役職を継承。鎌倉幕府との交渉役として活動してきた家です。
自然、鎌倉の北条氏とは近しい関係を構築。鎌倉幕府滅亡後には西園寺公宗は権大納言の職を一時停止されるなど処分されています(のち復帰)。
西園寺公宗にとって幕府滅亡は、自身の権力と立場の喪失を意味していたのです。
建武2(1335)年6月、公宗は泰家ら北条氏の残党と連絡を取り合い、復権を画策。計画されたのが、後醍醐天皇の暗殺計画でした。
2人は西園寺家の山荘(のちの金閣寺こと鹿苑寺)に招いて殺害し、後伏見法皇を擁立して重祚(天皇経験者の再度の即位)させることを目論みます。
しかし計画は公宗の弟・西園寺公重の密告で露見。武者所から楠木正成と高師直が派遣されて、公宗は捕縛されてしまいました(のちに殺害)。
泰家は追撃の手を逃れて逃走。諸国の北条氏残党に武力蜂起を呼びかける行動に出て行くことになるのです。
やがて泰家は、諏訪頼重によって匿われていた甥の北条時行にも会いに行ったと考えられます。
建武2(1335)年7月14日、北条時行は頼重や海野氏、滋野氏ら信濃国の武士たちに擁立される形で挙兵。信濃国の守護・小笠原貞宗と戦いながら鎌倉を目指します。
世にいう中先代の乱の始まりです。
一連の戦で信濃国においては清原信濃守が自害。