『逃げ上手の若君』時行よりも逃げ上手!叔父・北条泰家が魅せた生存への執着と衝撃の結末【後編】 (3/5ページ)
貞宗の守護所も攻撃されるなど、甚大な被害が出ています。
7月20日ごろには、時行軍は武蔵国で鎌倉将軍府の軍勢を撃破。渋川義季、岩松経家、今川範満らが討たれています。
鎌倉将軍府の執権・足利直義(足利尊氏の弟)は井手の沢で時行軍を迎撃。敗れると鎌倉を逃れています。
7月25日、時行軍は鎌倉を制圧。一度滅んだ北条氏が再び息を吹き返した瞬間でした。
しかし足利尊氏が関東に下向して直義と合流すると状況は一変。時行軍は敗北を喫し、諏訪頼重は勝長寿院で自害して果てました。
風雲急を告げる時代の中で、次々と英雄たちが火花を散らしていきます。
泰家と公宗は、西園寺家の山荘(のちに金閣寺が立つ)で後醍醐天皇を亡き者にしようと画策していた。
北条泰家ここにあり!ついに果たした念願の鎌倉入りの真実とは?鎌倉奪還後、足利尊氏に建武政権から帰還命令が発出。しかし尊氏はこれを無視したため、京の建武政権との対立が深まっていきました。
尊氏を危険視した後醍醐天皇は新田義貞に追討を命令。逆に尊氏は義貞を破り、建武3(1336)年1月に京の都へ進出します。
このとき、奥州から陸奥鎮守府将軍・北畠顕家が5万の兵を率いて西上。尊氏は北畠軍に大敗を喫して九州へと落ちて行くこととなりました。
そしてこの間、泰家は虎視眈々と牙を研いでいたようです。
建武3(1336)年2月、信濃麻績御厨で泰家が挙兵。