『逃げ上手の若君』貴族の血を引く反逆者!悪党・瘴奸の実在モデル・平野将監の生涯【前編】 (3/5ページ)

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そのため、平野一族が単純に一国だけに属する在地武士と考えることはできません。複数の地域を移動し、京の朝廷とも関係を持つ武士だった見ることができます。

一方で平野氏や将監自身は悪党(支配体制に反抗する武装集団)だったと言われており、しかも西国悪党の惣領格とも言える立場でした。

悪党という性格上、朝廷に反抗するというイメージを持ちがちです。しかし将監や平野一族は、朝廷や公家が動かす武装集団という一面も見て取れます。

嘉暦3(1328)年12月、京の三条高倉において放火殺害事件が発生。これは東大寺と下鴨社による、摂津国長洲荘の土地をめぐる抗争が原因でした。

幕府の六波羅探題は犯人で悪党の教性を捕縛。しかし後醍醐天皇は赦免の綸旨を出すという事態に発展します。

土地争いの背後には、朝廷と幕府の争いがすでに存在していたことがわかる事例です。

そしてこの教性と行動を共にしたのが、同じ悪党である将監でした。

元徳2(1330)年、将監は教性らと数千人という数の悪党を率いて延福寺に乱入。城郭を構えて狼藉を働いとされています。

六波羅探題の奉行らは将監ら討伐のために御家人招集を計画。しかしほとんど集まらなかったと言われます。

将監の目的の一つは、幕府の権威を貶めることにもあったのではないかと思われる場面です。

翌元禄3(1331)年、将監は教性に加勢して長洲荘の略奪を計画。東大寺側は将監に乱入を止めるように申し入れます。

ここで将監は銭2万疋という多額の裏金を要求。東大寺側は黙殺したものの、将監の存在感が際立っていたことがわかります。

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