手柄を立てたのに祝宴をスルー?豊臣秀長が「論功行賞」に出ず留守番を選んだ意外な理由 (1/4ページ)

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手柄を立てたのに祝宴をスルー?豊臣秀長が「論功行賞」に出ず留守番を選んだ意外な理由

論功より留守番

戦国武将というものは、合戦で大きな手柄を立てて名を挙げて、そして出世していくものですね。現に、武将たちの中でも豊臣秀吉などはその代表格と言えるでしょう。

とはいえ、皆が皆そうだとは限りません。他ならぬ、その豊臣秀吉の弟である豊臣秀長は現代の目線で見れば、不思議なほど自分の手柄を誇るよりも組織を優先する人物でした。

その性格がよく分かるのが、浅井長政との戦いです。秀吉軍は横山城を拠点にして小谷城を攻め、約2年半にわたる戦いの末、天正元(1573)年9月に長政を自刃へ追い込みました。

この戦いでは秀長も大きな戦果をあげています。浅井方の宮部善祥坊を説得して味方につけ、最後の攻撃では小谷城の京極丸を攻めました。

現在の小谷城跡の絵図

さらに長政の父である政を討ち、浅井家の滅亡につながる重要な功績まで残しています。武将として名を上げるには、十分すぎるほどの実績でした。

ところが戦いが終わったあと、秀長が向かったのは、主君である織田信長のもとで開かれる華やかな論功行賞ではありませんでした

この時、信長は岐阜城で戦功を評価する場を設けていました。主君から直接声をかけられて恩賞まで受け取れる機会ですから、武士にとって大きな名誉だったはずです。

しかも主君から高く評価されれば、その後の出世にもつながります。

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