蜜月から泥沼の追放劇へ…なぜ織田信長と足利義昭の『二重政治』は破綻したのか? (2/4ページ)

Japaaan

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置・Wikipediaより)

当時の京都では三好三人衆が足利義栄を将軍として擁立していましたが、十月には信長軍に追われます。こうして義昭は室町幕府第十五代将軍となりました。

ただし、信長が義昭へ政治の主導権をすべて渡したわけではありません。実際には信長の影響力が強く、将軍と信長による二重の政治体制が生まれました。

戦国時代におけるこうした二重の権力体制の構築は信長のオリジナルではなく、三好長慶がパイオニアだったとされています。

信長は義昭の就任にあたり、前例に従うことなどを求める殿中御掟も定めました。ただしこれは、最初から義昭を完全に押さえつけようとしたものではありませんでした。

一五六九年、義昭を再び三好三人衆が攻撃すると、信長は軍勢を送り込んで撃退。さらに義昭のために二条城を築き、将軍の政治基盤を整えていきます。

ここまでは、まさに二人の蜜月期間だったと言えるでしょう。

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