蜜月から泥沼の追放劇へ…なぜ織田信長と足利義昭の『二重政治』は破綻したのか? (4/4ページ)
九月には信長が異見十七カ条を公表し、義昭の朝廷への態度や遊興、賄賂などを厳しく批判。
このあたりから、信長は義昭との関係を政治的に切り離していくことを考えていたのでしょう。
正親町天皇は信長と義昭に和睦を命じましたが、関係は修復しませんでした。七月、義昭が槙島城で挙兵すると信長はこれを破り、義昭を京都から追放します。
一五六八年に義昭を将軍として京都へ連れてきてから、その将軍を京都から追い出すまでの期間はわずか五年。
義昭は河内へ追われ、その後は備後へ移って毛利輝元を頼ります。晩年には豊臣秀吉から一万石を与えられ、一五九七年に死去しました。
こうして義昭の追放によって、室町幕府は終わりを迎えます。
ここまでの経緯と結末を見ると、あたかも最初から最後まで信長が義昭を利用したかのように見えます。
しかし実際の政治体制の二重権力構造の実態はそうシンプルに割り切れるものでもありません。二人はそれぞれに役割と思惑があったのです。義昭の将軍としての権威も、決して消滅はしていませんでした。
ただ信長にとって義昭は、最初は京都へ入るための重要な政治的存在でしたが、最後には自らの政権を妨げる存在となったため、追放という形で対立を解消せざるを得なかったのでしょう。
参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan