蜜月から泥沼の追放劇へ…なぜ織田信長と足利義昭の『二重政治』は破綻したのか? (3/4ページ)
将軍を追放
ところが一五七〇年になると、信長の周囲で反抗勢力が次々と動き始めました。朝倉義景と浅井長政、三好三人衆、長島の一向宗門徒などが相次いで信長と対立したのです。
こうした反信長勢力の拡大には、義昭がひそかに働きかけていたという説があります。信長への感謝が、自分の将軍としての権威を十分に尊重しないことへの不満へ変化したと考えられているのです。
ただし、すべてを義昭の働きかけだけで説明することはできません。
当時の信長は経済政策も推し進めていました。道路や河川に設けられていた関所を廃止し、伊勢湾の交易をおさえ、自治都市だった堺には代官を置いて矢銭を求めたのです。
信長は、四国から大阪、京都へつながる交易圏へ影響力を広げていました。三好政権が持っていた畿内の政治的、経済的な基盤を奪ったともいえる構図でした。
こうして見ていくと、戦国大名にとって信長打倒は領国を広げる機会でもあり、天下人を目指すなら避けては通れないチャンスでもあったわけです。将軍からの呼びかけに応じる理由はそれぞれに存在していました。
義昭の呼びかけが直接的な原因ではなく、各人の利害が一致する状況だったのでしょう。
一五七二年には信長と義昭の対立がさらに激しくなります。