光明皇后の「慈悲深さ」はイメージ戦略?聖徳太子伝説を利用した「聖女化」の真相 (1/3ページ)
不安定な政局
聖武天皇の皇后である光明皇后(光明子)はとても慈悲深い人物として知られています。しかしそこにはある種のイメージ戦略があった可能性が指摘されています。今回はこれについて説明しましょう。
奈良時代のことです。天平9年(737年)に天然痘が猛威を振るい、藤原四兄弟をはじめ多くの高級官人が相次いで亡くなりました。
そこから政権の中心へ進んだのが、当時の光明子の異母兄にあたる橘諸兄です。彼は天平9年(737年)に太政官の最高位となりました。
ところが橘諸兄と藤原四兄弟の後継者たちは対立を続け、政局は安定しませんでした。
しかも光明子には、夫の聖武天皇が精神的に不安定で、事件が起こると放浪の旅へ出てしまうという問題もあったのです。
こうした状況で光明子が重視したのが、聖武天皇を支えながら藤原氏の勢力を保つことでした。そのためには、皇后として人々から高く評価される必要があります。
大きな障害となったのは、兄たちによる長屋王の謀殺でした。本人が直接殺害したわけではありませんが、長屋王を倒した側の一族という印象を消す必要があったのです。
そこで光明子が目を向けたのが仏教です。当時の仏教は、後世に国家仏教と呼ばれる考え方と結びつき、華厳経を中心として国家を守る思想として唐や隋でも利用されていました。