光明皇后の「慈悲深さ」はイメージ戦略?聖徳太子伝説を利用した「聖女化」の真相

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光明皇后の「慈悲深さ」はイメージ戦略?聖徳太子伝説を利用した「聖女化」の真相

不安定な政局

聖武天皇の皇后である光明皇后(光明子)はとても慈悲深い人物として知られています。しかしそこにはある種のイメージ戦略があった可能性が指摘されています。今回はこれについて説明しましょう。

奈良時代のことです。天平9年(737年)に天然痘が猛威を振るい、藤原四兄弟をはじめ多くの高級官人が相次いで亡くなりました。

そこから政権の中心へ進んだのが、当時の光明子の異母兄にあたる橘諸兄です。彼は天平9年(737年)に太政官の最高位となりました。

橘諸兄(Wikipediaより)

ところが橘諸兄と藤原四兄弟の後継者たちは対立を続け、政局は安定しませんでした。

しかも光明子には、夫の聖武天皇が精神的に不安定で、事件が起こると放浪の旅へ出てしまうという問題もあったのです。

こうした状況で光明子が重視したのが、聖武天皇を支えながら藤原氏の勢力を保つことでした。そのためには、皇后として人々から高く評価される必要があります。

大きな障害となったのは、兄たちによる長屋王の謀殺でした。本人が直接殺害したわけではありませんが、長屋王を倒した側の一族という印象を消す必要があったのです。

そこで光明子が目を向けたのが仏教です。当時の仏教は、後世に国家仏教と呼ばれる考え方と結びつき、華厳経を中心として国家を守る思想として唐や隋でも利用されていました。

日本でも持統天皇が仏教を信仰しており、光明子も皇后になる前から福祉活動を行っています。藤原氏の氏寺だった興福寺に悲田院と施薬院を設け、孤児や貧しい人々を助け、薬を与えたり治療したりしていたのです。

この活動には、中国の武則天が設けた悲田養病坊という先例もありました。光明子の活動は慈善であると同時に、仏教を通じた国家と福祉の思想を取り入れたものだったと言えます。

太子との接点

しかし、慈善活動を大々的に宣伝すれば、売名行為と受け取られる危険があります。そこで効果的なのが、本人ではなく先人の行いを受け継いだという物語でした。

その舞台として登場するのが斑鳩です。

長屋王が殺害された729年から10年後の739年、行信という僧が、厩戸王(聖徳太子)が住んでいたとされる場所で焼失した宮殿を再建しました。

これは現在の法隆寺東院にあたる施設で、当時は上宮王院と呼ばれていました。中心となる夢殿は八角円堂として知られ、再建には光明子も多額の資金を提供しています。

聖徳太子像

さらに行信は夢殿に救世観音の立像を安置しました。救世観音は人々の苦しみを救う仏とされ、ここに聖徳太子に関する伝承や逸話も集められます。これらが夢殿文書と呼ばれ、現在まで伝わっているのはご存じの通りです。

そこでは斑鳩に住んでいた厩戸王、つまり聖徳太子の善行が数多く記録されました。

中でも注目されるのが、聖徳太子が悲田院や施薬院を設けて貧しい人や病人を救ったという話です。これは光明子自身の福祉活動と重なる内容でした。

作られた?皇后像

そして、聖徳太子が悲田院や施薬院を作るなどの善行を行い、それを光明皇后が再び受け継いだというストーリーが作られていきます。

光明皇后(Wikipediaより)

さらにそこへ、光明皇后は聖徳太子の生まれ変わりかもしれないという話まで加わりました。こうなると光明皇后は、慈悲深い皇后として描けます。

もちろん、光明子が行信に聖徳太子の物語を作らせたことを証明する史料はありません。行信が単独で考えたのか、光明子を含む政治的な背景があったのかも、断定はできません。

それでも、739年に行信が法隆寺東院を再建し、光明子が多額の資金を援助したことは伝えられています。

そこへ聖徳太子の善行と光明子自身の福祉活動が重なれば、慈悲深い皇后という人物像が生まれる条件は十分にそろいます。

ここに何らかの意図があったのではないかと考えることは不自然ではないでしょう。

まして、光明皇后には「長屋王を暗殺した一族」という負のイメージがあったことから、これの払拭を目論んだ可能性もないとは言えません。動機も十分だということです。

参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia,PhotoAC

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