【豊臣兄弟!】なぜ茶々は「親の仇」秀吉の側室になった?史実では寧々との対立も創作、実は共闘していた (2/10ページ)
※別妻:正妻に準ずる地位
茶々に、親の仇であり歳の離れた秀吉の側室になれという秀長。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より
茶々が側室になった時期には諸説あり茶々が秀吉の側室(別妻)になった時期には諸説あるようです。
・天正16年(1588)ごろ
先週の『秀長の国』で、秀長が大和郡山入りをして郡山と城下町の整備を薦めている、天正13年頃から3年後の天正16年頃説。
天正17年5月27日に茶々が秀吉との子、長男・鶴丸を出産した時期から逆算したという説です。
・天正11年(1583)〜14年ごろ
近年の研究では、茶々の母・お市が再婚相手の柴田勝家とともに北ノ庄城で自害し、三姉妹が秀吉の庇護下に入った姫路城滞在時の天正11年頃という説があるようです。
そして、『言経卿記』(ときつねきょうき)の記録によると、天正14年10月1日頃ともされています。
お市の次女・初に仕えた女房の『渓心院文 』(けいしんいんのふみ )という覚書には、秀吉から側室(別妻)の申し込みがあった際、「自分より先に妹の初と江を嫁がせて欲しい」と、長女らしい要求をしたそうです。