【豊臣兄弟!】3歳で散った儚い命…茶々(井上和)と秀吉の“初めての子” 鶴松、溺愛の果てに訪れた絶望
小谷城で父(浅井長政)を討ち、北之庄城で母(お市)を奪った羽柴秀吉(豊臣秀吉/池松壮亮)に養われていた茶々(井上和)は、やがて秀吉の側室となりました。
そして天正17年(1589年)に秀吉の嫡男を生むことになります。果たしてこの子はどんな生涯をたどるのでしょうか。
今回は茶々と秀吉の間に生まれた豊臣鶴松(とよとみ つるまつ)を紹介。大河ドラマ「豊臣兄弟!」を楽しむ参考になれば嬉しいです。
茶々が秀吉の側室になった目的や、寧々(浜辺美波)と茶々の関係性など、以下の記事で史実をもとに考察していますので、ぜひ合わせて読んでみてください!
【豊臣兄弟!】なぜ茶々は「親の仇」秀吉の側室になった?史実では寧々との対立も創作、実は共闘していた 待望の嫡男誕生に大盛り上がり
豊臣鶴松は天正17年(1589年)5月27日に山城国淀城(よどじょう。京都市伏見区)で誕生しました。
この淀城は茶々の産所として築かれ、言わば彼女に与えられた城であるため、彼女は淀君(よどぎみ)・淀殿(よどどの)などと呼ばれるようになります。
出産のために城ひとつ築いてあげてしまうとは、秀吉がいかに茶々を溺愛し、嫡男の出産に期待を込めていたかがわかるでしょう。
当時の秀吉は53歳。すでに高齢どころか孫や曾孫がいてもおかしくない年齢でしたから、生まれた我が子がそれはもう可愛くて仕方なかったと思われます。
しかし油断してはいけません。当時は乳幼児の死亡率が非常に高く、俗に「7歳までは神様の子(いつ召し返されても=死んでもおかしくない)」と言われるほどでした。
ちなみに以前紹介した、秀吉が前田利家から迎えた養女・菊姫(きくひめ)は、わずか7歳でこの世を去っています。
【豊臣兄弟!】わずか7年の生涯…秀吉に溺愛された豪姫に対し冷遇されたもう1人の養女・菊姫の不憫さ少しでも強くたくましく成長してもらわなければ、せっかくの喜びが水の泡となってしまいます。
そこで秀吉は、生まれた我が子に「棄(すて。御棄・棄丸・捨など)」と名づけました。
これは「捨て子はたくましく育つ」と考えられた当時の風習にならったもので、あえて一度捨てた子を拾ってたくましく育ってほしい親心が込められています。
かくして一度捨てられ、拾われた棄は改めて鶴松と改名しました。
また可愛い我が子の武運長久を願って、八幡太郎(はちまんたろう)とも呼んだそうです。
これはかつて八幡太郎(八幡大菩薩の化身)と異名をとった源義家(みなもとの よしいえ。源頼朝の高祖父)にあやかったもので、秀吉はすでに我が子が大活躍する未来を思い描いていたのでしょう。秀吉の親バカぶりが、とても微笑ましいですね。
そんな鶴松の傳役(もりやく。教育係)には譜代家臣の石川光重(いしかわ みつしげ)が任じられました。
鶴松が生後30日を迎えたお祝いでは、朝廷から産衣(うぶぎぬ)や様々な祝儀品を賜ったほか、多くの人々からお祝いが寄せられます。
中でも蒲生氏郷(がもう うじさと)は、祖先の藤原秀郷(ふじわらの ひでさと。俵藤太)が大ムカデを退治した鏃(やじり)を刀に仕立て直したものを贈りました。
秀吉の脳裏には、妖怪退治の名刀を奮って戦場で大活躍する「八幡太郎」の勇姿が浮かんだかもしれませんね。
さて、生後4ヶ月を迎えた9月13日に、秀吉は茶々と鶴松を大坂城へ迎え入れました。この日が来るのを、待ちきれなかったことでしょう。
秀吉の正式な後継者が定まった祝いとして、後陽成天皇(ごようぜいてんのう。第107代)から太刀を賜ったほか、この時も多くの祝儀品が贈られました。
そして淀城から大坂城まで、茶々と鶴松は絢爛豪華な大行列で向かったそうです。人々の注目を集めながら、茶々は天下人のような気分を味わっていたことでしょう。
天下一統より大事な我が子?
茶々と鶴松は天正18年(1590年)の年明けを大坂城で迎え、2月13日には京都の聚楽第(じゅらくだい)へ移りました。
やがて秀吉が小田原征伐(対 北条氏政・北条氏直)で関東へ出征すると、鶴松は大坂城へ入ります。
まだ2歳の幼児であっても、秀吉の後継者として本拠地を守る体裁をとったのでしょう。
秀吉が凱旋すると静養のため淀城へ移りますが、あまり頻繁な移動が幼体に堪えたのか、7月27日ごろから病床に伏せてしまいます。
『多聞院日記』によると奈良の興福寺に供物が贈られ、春日大社で病気平癒の祈祷が行われました。
何をするにも大規模(大げさ?)かつ親バカな秀吉ですから、恐らく興福寺だけでなく、他の寺社でも同様のことを行っていたのでしょう。
そのお陰もあってか、鶴松の病状は全快しました。秀吉としては、もし我が子に万一のことがあったら、と気が気でなかったことでしょう。
秀吉の親バカぶりは、天正18年(1590年)11月7日に李氏朝鮮からの使節を迎えた時にも発揮されました。
朝鮮使節の黄允吉(こう いんきつ)・金誠一(きん せいいつ)らと謁見した際、秀吉はいきなり中座したと思ったら、鶴松を抱きながら戻ってきたのです。
奥でぐずったから気になったのか、 あるいは使節らに見せびらかしたかったのかもしれません。
秀吉が嬉しそうに鶴松を抱いていると、鶴松はお漏らししてしまいました。大抵の父親なら機嫌を損ねる(というより、そもそも仕事の場に子供を連れ込まない)ものですが、秀吉はかえって上機嫌。大笑いして使節を憤慨させてしまいます。
令和21世紀の現代だと、時おり可愛いペットがWeb会議を邪魔するエピソードが微笑ましく報道されることがあるものの、当時の外交情勢は緊迫したものでした。
鶴松のお漏らしが日李両国の緊張を緩和させるどころか、ますます硬化させてしまったとしたら、鶴松が日本史に与えた影響は小さくないと言えるでしょう。
そんなこともありましたが、その後は秀吉も多忙のため、なかなか鶴松と会うことができませんでした。秀吉は何度も書状を出して病弱な鶴松を気遣っていたそうです。
こうして天正18年(1590年)は暮れていきました。秀吉にとっては天下一統を果たした重要な一年でしたが、鶴松を思えば天下どころではなかったのかもしれませんね。
必死の祈祷も甲斐なく世を去る
翌天正19年(1591年)閏1月3日、鶴松は病床に臥せてしまいました。秀吉は大急ぎで全国の神社仏閣に命じて病気平癒の祈祷に当たらせます。先月(天正19・1591年1月22日)に豊臣秀長(仲野太賀)が亡くなっていたことから、より一層心細く、不安だったことでしょう。
必死の祈祷が功を奏したからか、しばらくして鶴松の病状は回復しますが、8月2日になって再び鶴松は重篤に陥りました。今度こそダメかもしれない。秀吉はなりふり構わず全国の神社仏閣に病気平癒の祈祷を命じただけでなく、自身も東福寺(京都市東山区)に籠もって祈祷したと言います。
鶴松の下には天下の名医を片っ端から掻き集めたそうですが、祈祷も治療もその甲斐なく、鶴松は世を去ってしまいました。時に天正19年(1591年)8月5日、享年3歳でした。
秀吉の落胆ぶりはすさまじく、8月6日に自らの髻(もとどり)を切って鶴松の遺体に手向けたそうです。この時に徳川家康(松下洸平)や毛利輝元(濱省吾)ら諸大名や近臣らもこれに従って髪を切り、集まった髪の束が塚のように盛り上がりました。
※亡くなった鶴松を想い、秀吉が詠んだ和歌があります。以下の記事で紹介していますので、ぜひご覧ください。
『豊臣兄弟!』「夢のまた夢」あの辞世の句を生んだ秀吉の感性|師・細川幽斎と紡いだ亡き子への想い傳役であった石川光重の計らいで葬儀を妙心寺(京都市右京区)で執り行い、祥雲院殿玉厳麟公神童(しょううんいんでん ぎょくげんりんこうしんどう)の戒名が送られます。8月7日に秀吉は心身を鎮めるために清水寺へ参詣し、8月9日には有馬温泉へ湯治に向かいました。もちろんそれで秀吉の気鬱が晴れることはなかったでしょう。
やがて秀吉は方広寺(京都大仏)の隣に鶴松の菩提寺を建立することを決めました。文禄2年(1593年)に完成した祥雲寺の開山には南化玄興(なんか げんこう)を迎え、棄丸人形像(豊臣鶴松像)を祀らせます。寺には300石が寄進され、鶴松の遺品やかつて蒲生氏郷が贈った名刀などが奉納されたということです。
終わりに今回は秀吉と茶々の間に誕生した嫡男・豊臣鶴松の生涯をたどってきました。
鶴松を喪った悲しみから、二度と子供は捨てまいと思ったのでしょうか。次に生まれた男児には拾丸(ひろいまる。後の豊臣秀頼)と名づけて、大切に大切に育て上げたのでした。
果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、仇敵である秀吉との間に生まれた我が子を、茶々はどのような思いで抱くのでしょうか。
彼女の心境がどのような変化を見せていくのか、これからも注目していきたいですね。
茶々に関する話題は、こちらの記事でも紹介しています!
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桑田忠親『新装版 淀君』吉川弘文館、1985年6月 渡辺世祐『豊太閤の私的生活』講談社、1980年6月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan



