徳川四天王が見初めた武将!秀吉の大軍から深谷城を守り、家康のもとで大名へ登り詰めた秋元長朝の生涯 (3/4ページ)
大挙する秀吉の軍勢を必死に持ちこたえ、7月に入って宗主の小田原城が降伏したとの報せが入りました。
主君の城を明け渡すのは忍びないものの、その主君が先に降伏したのであれば、抗戦を継続する大義もありません。
長朝は因幡守と協議した上で深谷城を明け渡し、自身は秀吉に臣従するのをよしとせず、隠棲したそうです。
しかしこれで終わりではありませんでした。
家康に仕え大名となる
長朝の武勇を惜しんだ井伊直政(徳川四天王の一)が、文禄元年(1592年)に徳川家康へ長朝を推挙したのです。
深谷城での活躍は知られていたようで、家康は長朝を召し抱えて直政の配下につけました。
そして上野国碓氷郡(群馬県安中市・高崎市)に知行4千石を与えます。
やがて慶長5年(1600年)に家康が会津討伐の兵を起こすと、長朝は上杉景勝(旧主とは別家)に対する詰問の使者として派遣されました。
同年の関ヶ原合戦では対上杉の備えを担当し、戦後は景勝に降伏を勧める使者を務めます。
交渉の末に景勝を降伏させた功績により、長朝は上野国総社(群馬県前橋市)1万石へ転封されました。それだけ景勝を降伏させるのは難しかったのでしょう。
かくして大名に列した長朝は領内の治水事業に着手し、慶長9年(1604年)には利根川から水を引き込む大工事を成功させます。
安定した水源の確保によって農地が肥沃となり、収量の倍増した領民たちの暮らしは豊かなものとなりました。