『豊臣兄弟!』の裏で大出世!牢人から「2万5千石の城主」へ化けた秀長家臣・本多利久の生き様 (2/4ページ)
元は水野半右衛門利忠(みずの はんゑもんとしただ)という名前で織田伊勢守(織田信安)に仕えていました。
織田伊勢守と言えば、大河ドラマの序盤に織田信長(小栗旬)と抗争を繰り広げていた一族ですね。
やがて織田伊勢守家が滅亡すると牢人となり、名前を本多利久と改め、通称を与八郎(よはちろう)または太郎左衛門(たろうざゑもん)と名乗りました。
二つ名を持つ人間にロクなのはいないものですが、恐らく方々を渡り歩きながら苦労していたことでしょう。
利久には本多俊政(としまさ)・女子(秋田孫九郎室)・本多光吉(みつよし)という子供たちがおり、俊政はすでに元服していたそうです。
やがて羽柴秀吉(池松壮亮)の元へ転がり込み、後に父子揃って小一郎秀長の家臣に配属されました。
秀長家臣として元亀元年(1570年)~天正2年(1574年)の長島攻めや天正7年(1579年)の三木城攻め、天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦で武功を立て、天正12年(1584年)には従五位下(じゅごいのげ)・因幡守(いなばのかみ)に叙せられています。
そして天正13年(1585年)には大和国高取城(奈良県高取町)の城主を任されて知行2万5千石を拝領し、利久は晴れて城持ち大名になったのでした。
天正17年(1589年)には秀長の命によって高取城の改修整備に着手します。計画には軍学者の諸木大膳(もろき だいぜん)が携わり、この事業を通じて高取城は近代的な城郭として大和国内でも屈指の名城となったようです。