はるしにゃんの幾原邦彦論 Vol.3 ウテナと少女革命の真骨頂にゃん
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私、はるしにゃんによる幾原邦彦を論じる原稿の連載第3回目では、『少女革命ウテナ』論の後編を掲載する。
前回の『ウテナ』論の前編では、永遠という幻想を欲望するウテナが、倒錯的に「不可能としての革命」を敢行し、対照的に従順な女を演じるアンシーと対になる形で、友情でつながった1つの個性として描かれている様を論じた。
では、果たして、『ウテナ』における革命とはなんだったのか? それはどのように成就されたのか?
剣術というファルス権力のバトルフィールドを変革すること
『ウテナ』では、欲望を、自我を抑圧したアンシーという究極的な太母的女性を巡って剣術によるバトルが行われる。
ここでの決闘が「剣術」によるものであることは象徴的である。単に中世的な騎士道を指し表すのみならず、剣とはもちろん精神分析学的にはやはり男根であり力の象徴である「ファルス」のシンボルであり、そのゲームフィールド上のプレイヤーの権力への志向性を指し示している。
これはもちろん、日本の近代における家父長制的な権力構造、そしてその結果としての女性への抑圧と搾取を行っている社会構造を比喩的に描出している。
このゲームにおいてアンシーには人格など認められず、一種の貨幣や褒賞のごとく物象化されている。そのゲームに、王子様になりたいと行動するウテナが参画してアンシーを手に入れようとすることは、女性の搾取を行う構造の撤廃を志向することであり、社会関係の変革、すなわちゲームフィールドの変革という意味において、これもまた「革命」と呼ばれる現象である。
ジェンダー論的な観点から言えば、主体性を認められていないアンシー=女性の環境を、さながらアメリカ公民権運動のように改良しようと奮闘する活動家がウテナなのだ。
また、彼ら彼女らはその決闘の結果、アンシーを手に入れ「永遠」に至ることができると述べ、それを信奉してもいる。これはある種、王子様と少女の「幸福な結婚」とそれによる物語の完結という「シンデレラストーリー」的な物語類型の隠喩である。
幾原邦彦最新作の『ユリ熊嵐』同様「百合」をモチーフとする本作は、そうした「夢物語」を、同性間の関係性と、また象徴的比喩によって脱構築する。
永遠という錯覚、友情という幻想
それはどういうことか。しかし終盤において、「永遠があるという城」が、プラネタリウムのプロジェクターによる幻影でしかないことが明らかになることは、前編で述べた通りだ。
決闘広場の上空に浮かぶこの城が逆さまであったことは、カメラを通したことによる光の屈折であり、すなわち「永遠」なるものの錯覚性がここで映像的に表現されている。
また、こうした欺瞞的な「永遠」への疑義は、「友情」に対しても同様に存在する。作中において、幾度も「本当の友達がいると思っている奴なんてバカだ」といった趣旨の台詞と展開が繰り返されるからだ。
「友情もまた永遠ではないのではないか」──これもまた少女という、男性主体よりもずっとコミュニケーションの関係性を重視する生き物が常に生存戦略として思考せねばならない課題である。
あるいは作中で、幼馴染みである桐生冬芽と西園寺莢一というキャラクターの関係性において問われる友情の問題は、ひいては人間という共同存在にとっての普遍的な問題である。ここで問われているのは、人間にとって、単独的でありつつ普遍的な問題、すなわち愛の問題系だ。
「個人の多数多様性の解放」する革命
従来のジェンダー規範を逃れるウテナの服装と、「守られるお姫さま」より「守る王子様」になりたいという指向性は「性別越境性」を持っている。しかし、こう記述すると一見これは一般的な秩序の安易な「転倒」に見えるかもしれない。しかし、違う。
ここにおいて重要なのは、「男でもなく女でもなく」、ウテナが志向していたのはただ、「性別など無関係に自己と他者に生を吹き込む、凛として気高く、弱き者を支える者」としての「王子様」であるからだ。そもそも「うてな」という語は「花を支えるもの」を表す語であり、よりわかりやすく言えば花びらを守る「がく」である。
批評家の小林秀雄は「美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない」(小林秀雄「当麻」より)と述べたが、そうした個別的に咲き誇る、単独的な本性に従いその生の躍動(エラン・ヴィタール)をすこやかに伸ばした成果であるところの花、それを下支えするのがウテナなのだ。
その生き様は、それ自体が凛として咲くもう一本の花として生きることでもある。このような仕方で「潔くカッコよく生きていく」その姿を肯定する本作は、男女といった区分をもはや脱構築し含みつつ超えた「横断性」(トランスヴェリサリテ)をえがいている。
2種類ではなく各人の多種多様なるセクシュアリティが花開き、自らの力能=コナトゥスに素直に従い特異的なものになることを肯定すること──すなわち、『少女革命ウテナ』とは「n個の性」による「分子革命」を描いた作品なのだ。
「分子革命」とは、ドゥルーズ=ガタリにおいて「生成変化」と呼ばれ、そのような社会の集合的な構造に逃走線を引く特異な生存の様態、自覚的に振る舞う個人個人によって成し遂げられる変革を指している。
一言で言えば、それは「個人の多数多様性の解放」を意味している。そして『ウテナ』における分子革命とは、「ポリセクシュアリテ=性的多数多様性の解放」として顕在化する。
いかにして「少女革命」は成し遂げられたのか
ラスト付近において、ウテナは王子様と性交渉を持つ。アンシーの兄である鳳暁生=零落したディオスとだ。しかし実は、アンシーは実の兄である暁生と近親相姦を行っていたことが発覚する。そこでウテナとアンシーの友情にヒビが入る。すなわち「友情か恋愛か」の二者択一という極めて少女漫画的な主題が立ち上がるということだ。
こうして私たちは最終話を目撃する。すなわち、「少女革命」とはなにか、その真骨頂を、である。
ラストで描写される、棺桶のなかに入ったアンシーと剣の群れに串刺しにされるウテナ。それを眺める鳳暁生。これは、男性的権力構造によって女性が従属されていることを意味している。
剣とは男根であるから、ウテナはこの時点と、鳳暁生との性交の段階において貫通=姦通している。少女時代はセックスによってひとつのフェイズを終える。
しかし、それでもなおウテナは王子様であろうとする。そして泣きながら棺桶の中のアンシーを救いだした後「王子様に、なれなかったよ」と諦念を込めて述べたてるのである。だがこの瞬間、被従属的な女性であり非主体であったところのアンシーは、ウテナとの間に瞬間的永遠としての「友情」を感じるのである。
この「疑い得ない特権的な無償の愛(アガペー)としての友情」こそが「少女革命」のその意味に他ならない。ここにおいてウテナとアンシーの関係性はかけがえのない単独性=特異性へと生成変化している。
ドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』において映画『ウィラード』の分析として論述したように、生成変化の契機とはまず群れのなかで「特異なもの=シンギュラリティ」を見出すことで始まるのだ。
鳳暁生はその父権性と王子様からの零落ゆえにその「革命」という〈出来事〉に気づかない。革命は、ラカン的に言えばファルス的享楽によっては為されえず、「女性享楽=大文字の他者の享楽」という外部性へ開かれるからこそ生起するものだからである。
そして最後、その鳳暁生を置いて、モラトリアムや思春期を象徴する学園という檻から自らを解放したウテナを探しに、アンシーもまたその一歩を踏み出す。
かくのごとき「少女の幻想の崩壊と、それでもなお祈りによって成就するかけがえのない女の子同士の友情=革命=永遠」を描いてみせたがゆえにこそ、本作は一方で女性からの多大な支持を得、また他方でその少女漫画的想像力に対する自己批評性によって類稀なる強度を有するに至ったわけだ。
成熟、すなわち少女がそれぞれ固有の方法で大人になること
劇場版の『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』。タイトルに青春を意味する「アドレセンス」の語が入っているように、これもまた思春期や青年期の問題を扱った作品であったと言えよう。
そちらではより解りやすく爽快に、それでいて豪快に、幻想の外部への脱出とそこに広がる「平坦な荒野」が描かれている。外部、そこでもまた彼女たちは困難に出くわすかもしれない。しかし、ラストにおいてバイクへと生成変化し、この平坦な荒野を二人で疾走する彼女たちは、仮にダーティーな世界であろうとビートニクのように、逞しくサヴァイヴしていけるだろう。閉鎖された王子様の圏域たる学園を抜け出して、彼女たちは初めて「大人」になったのだと言える。
これは守旧的な成熟とは位相を異にする脱近代的な成熟だ。
すなわち、『少女革命ウテナ』とは、か弱い少女が華麗にして魅力的な自由な大人へと成長する、極めてまっすぐなビルドゥングスロマンなのだ。にゃん。
時に愛は強く人の心を傷つけもするけれど
夢を与え 勇気の中にいつもひかり輝いて
愛は強く人の心を動かして行く
だから二人でいる きっと世界を変えるために
そしてすべては ひとつの力になる
『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』主題歌「時に愛は」より