【マジかよ】宮本武蔵は遅刻なんてしてなかった! 卑怯者でもなかった! (1/2ページ)

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【マジかよ】宮本武蔵は遅刻なんてしてなかった! 卑怯者でもなかった!

宮本武蔵の巌流島での佐々木小次郎との対決について「一般常識」としては、ツバメ返しの達人の小次郎を、武蔵はわざと大幅に遅刻することで、じらして勝負を有利にし、船の櫂をけずった木刀で倒した、ことになっている。

・小説『宮本武蔵』の描写
ところが、これは史実からは大きく離れている、というのが最近の研究だ。岩波新書「宮本武蔵」で国際武道大教授(日本思想史)の魚住孝至さんによると、一般常識の巌流島の戦いは、吉川英治の小説『宮本武蔵』の描写によって定着した。

・一般的なイメージの巌流島の対決は小説だった
吉川版の元ネタは、1776年に書かれた『二天記』がベース。この年は、武蔵(1582~1645年)が死んでなんと約130年も後。つまり史料性は極めて低い。

・武蔵が遅刻した!?
では、もっと信憑性の高い史料はないのか? というと、ある。それは、武蔵の死後9年目に、武蔵の養子となった宮本伊織が建立した顕彰碑「小倉碑文」だ。そこには「両雄同時に相合し」とあるから、武蔵が遅刻したということはなかった。

・名前すらなかった!
さらに「岩流三尺の白刃を手にして来り(略)武蔵、木刀の一撃を以て之を殺す。電光猶ほ遅きが如し」とあり、そもそも「佐々木小次郎」という名前すらなかった!

・大きなウソはないだろう
佐々木の姓がでる(小次郎というのは古くから伝わっていた)のは上の「二天流」がはじめてで、それもその当時の歌舞伎からとったらしい、と魚住教授はこのテーマを特集した朝日新聞の取材にコメントを寄せている。死後わずか9年後の記録なので、あまりにも大きなウソはないだろうと見られている。

・怒った小次郎の弟子
一方、17世紀(1682年)の「沼田家記」には、戦いの後、小次郎は蘇生したが、それを隠れ見ていた武蔵の弟子が殺した。

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