人間と編集者の狭間で...元少年Aの『絶歌』を読んで思ったこと|久田将義コラム (2/3ページ)

東京ブレイキングニュース

それなら提訴されるのを覚悟の上で、「本を出します」という手紙を届けて出版する、という手段もある。

 しかし、僕は後者の方法も取らない。どこの世界にも仁義や筋があり、その中で僕らは色々な商売を生業としている。編集者としての僕は「甘い」と言われるかも知れないが、この本は持ち込みがあっても出さなかっただろう。編集者というより人間としての自分の「心」を優先しただろうから。

 表現の自由は憲法第二十一条によって保障されている。これは絶対に守らなければならない。表現の自由のなかに言論の自由も入っている訳だが、極論すれば「何を書いても良い」のが表現の自由だ。しかし、「その代わり何を、どんな批判をされても良い」というのも表現・言論の自由である。遺族側は媒体を持っていないため対抗できる手段としては裁判所に訴える等の方法しかない(他媒体で反論を掲載する可能性はあるが)。それを覚悟で出版したのなら、もう僕は何も言う事はない。ただ再度言うが遺族の許可なしでは出すべきではないし、僕なら出さなかったという事だ。これが編集者としての僕の意見だ。

 百歩譲っても犯罪者の心理の研究する材料にもあまりならない。そして、やはり何より「遺族を無視して」出版した事が僕の中では、ずっと心に残っている。これは出版業として致命的ミスではないだろうか。筋論(情の部分)においても業務論(ビジネスの部分)においてもである。

 続いて、人としての僕の意見。まず本の内容だ。タイトルの意味がよく分からないが、小説じみた題名にまず違和感を覚えた。内容も「元少年A」である「僕」が、犯罪を犯し収監されてからの事が「描いて」ある。著者名は「元少年A」とせざるを得なかったのは分かるが、彼は一生「酒鬼薔薇聖斗」という名前を背負っていかなければならないと思う。

 また本を「描いている」と僕は書いたが、「告白」しているのではない。文字通り「自分を小説の主人公のように」「描いて」いるのである。彼の文章をほめる人がいて良い。もしかして「文学的価値がある」という人も出てくるかも知れない。あるいは口に出さないだけで思っているかも知れない。ドストエフスキーや村上春樹やユーミンの文章、歌詞を引用し、第一部は小説そのものである。

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